【ナレーター】
大きな転換期を迎えつつあるファッション業界。市場環境や消費者ニーズの変化をいかに的確に捉え、最善手を打つことができるかが、生き残るための鍵となる。
そんな中、ファッションから小物、イベントに至るまで業界の枠を超えた取り組みを積極的に行い、その存在感を際立たせている企業がある。株式会社ビームスだ。
「Happy Life Solution Company」を標榜し、国内外に160店舗以上展開。2019年10月には宇宙航空研究開発機構、JAXAに所属する宇宙飛行士の国際宇宙ステーション滞在ウェアを日本で初めて手掛けるなど、その事業領域を拡大させている。
セレクトショップの代名詞とも言えるビームスを一代で創り上げた経営者の軌跡と、企業を存続させる人材マネジメントの極意に迫る。
【ナレーター】
1951年、東京都出身。小さい町工場を営む父のもとで生まれ育った設楽は、幼少期から工場に入ってはものづくりに没頭。当時の原体験が今のクリエイティブ精神の原点になっていると設楽は語る。
【設楽】
幼稚園の時、ダンボールの破片を拾ってそれで何か模型などをつくっていました。まだ本当に物がない時代でしたから、割り箸と糸巻きとゴムひもで何かつくったり、余ってるダンボールでロボットをつくったり。
それがおそらく今の創意工夫というか、物がないところでいろいろ工夫するということに通じたのかなと思います。
【ナレーター】
学生時代、テレビや映画でしか知り得なかったアメリカ文化に強い憧れを抱いていた設楽。当時よく訪れていたという横須賀での衝撃的なエピソードに迫った。
【設楽】
年に何回かバザーで米軍基地の中に入れてもらっていました。中に入ると、自分がテレビや映画で見てた、夢で見てた、アメリカの景色が広がっていました。
見たことがない、GEの大きい冷蔵庫と芝生の中にラッシーが走っていて、米兵が見たことがない白いジーパンを履いていて。自分たちが月星(月星ゴム、現ムーンスター)のバッシュを履いているのに見たことがないバッシュ、スニーカーって言葉も当時は知らなかったので、それを履いていて。
そんなものが欲しいと思っても売っているところもない。バザーで見つけても、サイズがとてもとても合わなくて買えないし上野のアメ横とか横須賀へ探しに行くという。本当にモノと情報が無い時代でしたね。
【ナレーター】
将来について、父の跡を継ぐことは全く考えていなかったという。その真意とは。
【設楽】
アーティストであったり建築家であったり職人さんであったり、何かひとつのことに対してものすごくプロであるという専門分野を極めた人や憧れがあって。
いろいろなジャンルを僕はかじっていて、ある程度は上手にこなすんですけれども、本当に上手い人にはかなわないということで、クリエイターになるには何があるかって思ったときに広告の世界があったんですね。
専門のジャンルの勉強をしていなくてクリエイターになるには広告の世界が一番近い。いろいろなものをかじってきた自分ができることはそれじゃないかなと思っていたので。
電通に入ったときに別に後を継ぐとか、そういうことはまったく考えてはいなかったですね。
【ナレーター】
1975年に大手広告代理店へ入社した設楽は、イベントのプロデュースに従事。その仕事と並行して、憧れであったアメリカからの輸入商品を取り扱う、わずか6.5坪の店「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」を1976年に開業。その経緯と印象深いエピソードに迫った。
【設楽】
ちゃんとしたビジネスになるとは当時は思っていなくて、いわゆる趣味の店みたいな感じですよね。ビームスを始めて7年間は広告代理店と両方やっている。とてもビームスだけで食えるような状況はなかったですから。
それで局長に「お前副業やっているだろう?」と言われて。当時は副業禁止でした。「いえ、副業はやっていません」と答えました。すると「ビームスとかいう店をやっているみたいじゃないか」と言われて。
「局長、副業というのはそっちからもギャラをいただくことです。僕は全然もらってないし、持ち出しです。これは副業ではなくて趣味でしょう」と言ったら「それはそうか」と納得していただけました。
【ナレーター】
当時は情報を得る手段が限られており、商品に関する情報がほとんど出回っていなかったという。そんな中、設楽はどのように情報収集をしていたのか。
【設楽】
当時電通は築地にありましたし、橋を渡ったところに当時の平凡出版、マガジンハウスがあって。そこにたまたま学生時代の悪友がいたんです。
そいつに例えば「今アメリカでNIKE(ニケ)※という運動靴が流行っているみたいだよ」とか、いろいろ情報を聞き出していました。それくらい情報がない時代でした。
※当時はナイキをニケと呼ぶほど、情報がなかった。
ビームスは並行輸入の走りでしたから、仕入れる先も国内にはなく、バッグを持って海外に行きました。
メーカーからの仕入れ情報もなく、一生懸命店を探して、時には「まとめて買うから安くしてくれよ」と言って、それで日本に持ってきて店頭に並べてということをやっていました。
しかも当時は1ドル320円の時代でしたから、海外に行くのもものすごく大変でした。高かったですし、仕入れよりもいくら安くしてくれと言っても、今と違うレートでものすごく高いものになってしまう。
初任給6万8000円の時代に5万円台の靴を売っていましたからね。そうしなければレートが高すぎて。本当のマニアだとか、本当に好きな人しか買わないし、ましてや広告宣伝もできるお金もない。原宿の片隅でお店をやっていましたからね。
ですので、最初は本当に業界の方しか来てくれないお店でしたね。
【ナレーター】
多くの苦難を乗り越え、2020年11月時点で国内外に160店舗以上展開するまで成長を遂げたビームス。しかし一方で、規模の拡大に伴うジレンマに苛まれることも多かったという。
【設楽】
いつもどこで店舗拡大を止めようかというジレンマがありました。
1店舗の時というのはマニアの方が集まる「とんがった店」だったんです。それが増えれば増えるほどだんだんにやっぱりマスを相手にしなければいけなくなってしまった。とんがったものを分かる人に売っているだけの店ではビジネスが拡大できなくなってきてしまったんですね。
でも日和っているわけにもいかない。どこで芯を持ってどこで事業をちゃんと回していくか。やっぱり新入社員が入ってきたら昇進させてあげないといけないし、給料も上げてやらないといけないし。
ですから社長としての迷いというのは、いわゆる企業って永久拡大しないと。一巡して上は定年で辞めて下から入ってくるっていうところまではいってないですから。
やっぱりどんどん新たなスタッフが出てきたら、いわゆる経済的な意味でも幸せにしてやらないといけない。すると業績を伸ばしていかなければいけない。
かといって伸ばせば伸ばすほどこの業界での「とんがり方」がなくなる。その他大勢にあらずに、なおかつ業績を伸ばしていくにはどうすればいいかというジレンマは今もずっと続いていますね。