【ナレーター】
100年以上前を起源とするものが数多く存在する日本のものづくり。その技術と伝統を未来へ紡ぐためには、時代のニーズに合わせて革新をさせていくことが重要となる。
そんな中、富山県高岡市において400年以上の歴史を誇る「鋳物づくり」を昇華させ、成長を続ける企業がある。株式会社能作だ。
仏具、茶道具、花器の製造を祖業とし、時代の変遷とともに技術力を高め、鋳物づくりを進化させてきた同社は、世界初の錫100%でつくられた、曲がる「KAGOシリーズ」を始めとした業界の常識を覆す商品を次々と世に送り出す。
近年では結婚10年を祝す「錫婚式」事業や、鋳物製作の体験から宿泊までをプロデュースする「観光×宿泊」事業など多岐に渡る事業を展開し、鋳物という産業に轍を描き続けている。
伝統産業の新たな形を追求し続ける企業の成長の秘訣と、経営者の想いに迫る。
【ナレーター】
幼少期からものづくりが好きだったと語る能作。そのきっかけについてこう振り返る。
【能作】
母親が編み物教室の講師をやっていたんですよ。昔機械編みというのが流行っていて、生徒さんが何十人もいたような状態で。
僕もそういう環境で育ったのでボタンとか、あるいは毛糸とか色とりどりであるわけでしょう。そういうので遊ぶのが子供の時の日課だったのもあって、色とか形とかに段々と興味を持ち出したのはおそらくあるのではないかと思います。
【ナレーター】
高校生になると写真の魅力に惹き込まれ、本格的に学びたいと思うようになった能作は大阪芸術大学へ進学。大学生活の中で得た学びとは。
【能作】
人との関係づくりというのはとても大事だと思っています。
確かに勉強も大事なんですが、やっぱり色々な人と会ってお付き合いしてみると、自分の立ち位置とか考え方とかが分かるじゃないですか。
大学ってそういうのを勉強する場所だと4年経って思いましたね。勉強しなくていいとは言わないけれど、やっぱりそういう人間関係の構築というのは学生の時は大事ですよ。
【ナレーター】
その後、就職活動を得て大手新聞社へ入社。情報を正しく伝えるという報道の仕事の難しさを痛感したという。
【能作】
新聞社に入ったんだけどあまり漢字が得意じゃなかったんです。赤本という本があるんですが、それをいつも真っ黒になるまで見ながら「ああ、こうか」と。
例えば天皇陛下の記事というのは独特の言い回しとか言葉、文章があってそういったことも全部書いてあるんです。とにかく最初の一年は苦労しましたね。まず基礎からやらなければいけませんからね。
楽しかったんですけど、やっぱりしんどかったですね。時間は関係なかったし、いつ呼び出されるかもわからない状態だしというのもあって。報道というのはいかんせんそうですね。
【ナレーター】
そして1985年、結婚とともに義父が経営していた有限会社ノーサクへ入社。
報道カメラマンから職人という全く異なる業種への転職。葛藤はなかったのだろうか。
【能作】
僕はいつもそうなんですけれど、人生の枝分かれって特に若い方は必ず出てくるわけですね。
結婚も1つの枝分かれかもしれないし転職したりするのも枝分かれかもしれないけれど、やっぱり自分の選んだ道、その枝をどんどん大きく育てていかなければいけないのに、どうもこう選ばなかった枝を悔やむ人が多いんですよ。
だから選んだ時点で選ばなかった枝はもう腐ってなくなってしまっているんだよという意識じゃないと、先へ先へと新しい枝も出てこないですよね。
【ナレーター】
自ら信じた職人という道を歩み始めた能作。想像を超えた茨道が続く中、鋳物の面白さに徐々にのめりこむこととなる。
【能作】
やっぱり現場仕事でしょう。体力的に正直最初の1年はもたないかなと思ったこともありましたね。きついです。1200度くらいの金属を流し込むのが鋳造ですから。
周りも50度以上になってくるわけで、夏場はもう本当に地獄みたいな暑さです。冬場は冬場で逆に寒いというのもありますし。
ただ、段々と鋳物の面白みというのが出てくるんですよね。手をかければかけるほど鋳物が良くなってくる。やっぱりそういうのを体験してしまうと、元々ものづくりが好きだったのでとことんいきたいと思ってくるわけなんですよ。
3年目くらいからもう鋳物の面白さに取りつかれて、どうやれば最高の鋳造ができるだろうとか必死で考えながら色々やりました。
【ナレーター】
仕事が手に付き始めた一方で、本社を構える富山県外出身だった能作は、地方ならではのある悩みに苛まれていたという。
【能作】
県外出身の人で富山県に来た人はみんな「旅の人」って言われるんですよ。またどこかへ行くんじゃないかみたいな感覚だと思うんですよね。
後、僕はお婿さんとして富山に来たんですけれど、「何、あんた婿はんけ?」と言うんですね。ちょっと下に見るんですよ。それともう1つが「何、あんたは鋳物屋のあんちゃんけ」と言われる。
鋳物屋という仕事は地場産業で伝統産業なんですけれど、当時の地元の人たちは結構足元に見ているんですよね。
ただ、得だったのは同じ鋳物屋さんが僕に「お前は旅の人か」って聞かれて「はい」と言うと、「じゃあこれ誰にも言うなよ」と色々なことを教えてくれるわけですよ。
それを自分で実証して、「あの人の言っていることは正しい、こっちは間違っているな」という思いで技術を上達させた。だから当社の技術というのは実は高岡市内の職人さんに教わった技術なんですね。
【ナレーター】
この経験から、鋳物という伝統産業を地域の人々が誇れるものにしたいという思いを持つようになった能作。
そんな中、後の産業観光事業着想のきっかけとなったあるエピソードとは。
【能作】
たまたま「息子に伝統産業の鋳物の勉強をさせたいから見学していいか」という電話があったんです。ちょうど僕が入社して2年目か3年目ぐらいですね。いいですよと言って小学校4年から5年の子どもを連れてきたんです。
僕は現場にいましたから一生懸命つくって見せていたわけですよ。でもお母さんが自分の息子に「あんたよう見なさい。勉強せんかったらこんな仕事やるんだから」って言うわけですよ。その方は高岡の人だったんです。要するに地元の人。
それで僕が思ったのはやっぱり伝統産業って地場産業であり伝統産業ですから、地元の人の誇りになってもいいはずだと。それなのに、なぜこんなことまで言われなきゃあかんのか。どうしたら変わるかなと考えたのが“見てもらうこと”だと思ったんです。
だから子どもたちを招き入れて鋳物の世界を見せる、勉強してもらう。あるいは大人の人も見学に来てもらう。
僕は30年かかったんですけれど、あの当時は「こんな仕事」と言われていたのに今は小学校の時に見学した子どもたちが就職したいとやってくるわけですよね。地元が変わりましたよね。