【ナレーター】
金型用部品・精密機械業界で世界シェアトップクラスを誇る総合メーカー「パンチ工業株式会社」。
国内11カ所、海外40カ所の販売拠点を構え、顧客ニーズに寄り添う製品開発を行ない、世界のものづくりを支えている。
近年では自社工場への協働ロボットの導入や、欧米への販売強化などに注力し、生産性向上とさらなる成長へ向け、その歩みを進めている。
代表取締役社長の森久保哲司氏は2019年に現職に就任。当時は苦難の連続だったという。
危機を成長へ変えたその舞台裏と、経営者が見据える未来像とは。
【ナレーター】
自社の特徴について、森久保は次のように語る
【森久保】
当社の特徴としては“特注品”になります。
お客様から図面をいただいて、その図面に書かれている要求を満たしたものを製品にしてお届けするというところが特注品なんですけれども。
お客様の図面といっても、多種多様な書き方などがお客様によってありますので、なかなかそういったものを一挙に引き受けるという難しいんですけれども、当社はそこを長く請け負っていますので、間接の人達もそうなんですけれども、そういった図面を具現化していくノウハウというのがかなり溜まっていると思っています。
一つひとつの受注が短納期でご注文をいただきますので、もし不良品を出してしまうと、また1からつくり直さないといけない。
納期も間に合わなくなってしまうといったこともあるので、日々現場では張り詰めた緊張感の中で、一つひとつの製品に対して、毎日技術を磨き上げていけるというのが当社の特徴の一つだと思っております。
【ナレーター】
パンチ工業をけん引する森久保は、創業者で職人気質の父が家庭で会社について話をしてこなかったこともあり、当時はどんな事業をやっているか把握していなかった。
森久保自身は特に気にしておらず、他社に勤めていたと振り返るが、その状況を見かねた従業員のある一言で、考えが変わったという。
【森久保】
お前は何をやっているんだと。せっかく自分の父親のつくった会社がどういう会社なのか、まずは見てみなさいということで、そう言ってくださった従業員の方お二人に中国の工場に連れて行っていただきました。
そのあたりからですね、(パンチ工業への入社を)考え始めたのは。
従業員も生き生きと、とても楽しそうに仕事をしているなという印象をとても受けまして。
後はせっかくわざわざお二人に連れて行っていただいたご恩じゃないですけれども、そういったものも少し感じて、当社に入社しようかなと考えが変わってきたというところですね。
【ナレーター】
そして2003年にパンチ工業に入社。岩手県にある工場に配属され、ものづくりの基礎を学んだ後、入社のきっかけとなった中国の大連工場へ出向。
3年の中国駐在を終え、日本に戻り順風満帆な日々を過ごす中、あるプロジェクトの責任者として森久保に白羽の矢が立つ。
【森久保】
当時は東日本に工場があったんですけれども、西日本に生産拠点がなくて。その年の5月に「今年中につくる」と、そういうお達しが当時の社長から出まして。
それをやる人が中々おらず、私が事務局という形で入りまして、その時は結構大変でしたね。
後の兵庫工場の工場長をやられる方と作戦を練っていたんですけれども、大体20時に仕事を終えて、そこから兵庫工場をどうするかという打ち合わせを毎日やっていました。
設備もそうですし、人の採用もそうですし、教育もそうですし、どうすればスムーズに立ち上がるかというところを考えていく。これらをやっていた時は結構楽しかったですね。
【ナレーター】
新拠点の立ち上げを成功させた森久保は、その後マレーシアにて東南アジアの地区統括責任者を経て、取締役副社長に就任。
しかし、2013年に社長に就任し、パンチ工業を東証1部に上場させた武田 雅亮氏が急逝。代表取締役社長に急遽昇格することとなる。
十分な準備がない中での社長就任。当時は悪戦苦闘の日々だったと、森久保は振り返る。
【森久保】
私が社長になったタイミングは2019年で、コロナ・ショックが始まる1年前だったんですけれども、当時は米中貿易摩擦の影響もあって業績が一気に悪くなってしまった年だったんですね。
そこから今度コロナ・ショックが起こり、それがどこまで影響するかはまだ分からない状況でしたので、非常に不安なスタートになったのを覚えていますね。
取り組み内容も変えていかないといけないというところで、私を含め業務執行取締役が4人いるんですけれども、4人でよく話し合いをしまして。
まずその年の業務執行取締役の役員報酬を半分にしようと。取り敢えず半分にしないと、どうにもならないと。
社員の皆さんにも申し訳なかったんですけれども、賞与を減額させていただいて、何とか会社を続けられるようにしていこうという。
その代わり人を減らすことなどはしないようにして、何とか乗り切ろう、会社を変えていこうということを話して。
“経営革新プロジェクト”というプロジェクトを立ち上げて、いろいろ改善のための取り組みというのをそこからスタートさせたと。背水の陣からスタートしたような感じでしたね。