【ナレーター】
首都圏を中心に8業態、400店舗以上の飲食チェーンを展開する「株式会社ハイデイ日高」。
同社を代表する飲食店、熱烈中華食堂「日高屋」は、顧客層や時間帯を問わずに利用してもらえる店舗づくり、メニューづくりに注力する他、テイクアウト販売や、郊外ロードサイドへの出店、DXにも積極的に取り組んでおり、成長を続けている。
快進撃を続ける経営者が思い描く、ハイデイ日高の未来像に迫る。
【ナレーター】
自社の強みについて、青野は次のように語る。
【青野】
お手頃価格で、いろんな方にご利用いただけるというのが強みです。昼が強い店、夜が強い店というのはありますが、昼と夜の両方の時間帯においてお客さんが入るというのは、当社の強みだと考えております。
こだわっている点は、飽きない味、毎日食べられる味にするというのがあります。ラーメン屋でもなく、居酒屋でもなく、うちは食堂です。食堂というのは誰もが利用できるところですから。中華食堂としては、当社が筆頭であると自負しています。
【ナレーター】
青野のキャリアスタートはアルバイトだった。日高屋の前身である「らーめん日高」にアルバイトとして入社し、その後、正社員として「ハイデイ日高」へ就職。
なぜ同社を選んだのか、その理由について、こう振り返る。
【青野】
その年は証券会社が潰れ、大手企業がいつ潰れるかわからないような状況で、何を信用したらいいかという時に、たまたまバイトしていたところが好調で、始めた時は約20店舗くらいだったのが、1999年には60店舗ぐらいまで増えたんです。
成長が見込まれたので、10年は潰れない会社だと思い、大手ではないが、自分の目を信じてこの会社に入りました。
【ナレーター】
正社員になってからわずか1年後に、自身に店長をやらせてほしいと経営陣に直談判した青野。その真意とは。
【青野】
アルバイトは6年やりましたから、ラーメン日高のノウハウをいろいろ知っていまして、「店長やらせてもらったら、数字を出す自信があります」と、入社1年目の若造の社員が言ったわけです。
そうしたら、半年しないうちに店長を任せられました。その店舗は、当時は50代とか40代のベテランの店長が、何年か店長を経験した上で行くような店で、売り上げも利益も全店でナンバーワン、ツーぐらいの規模でしたから。
そこに、若造が行くとは思わないですし、それにもかかわらず抜擢してもらったのが、ターニングポイントだったと思っております。有言実行でやらなきゃいけないなというプレッシャーがありました。
【ナレーター】
店長として実績を重ねた後、SV(スーパーバイザー)、部長、執行役員を経て、2022年には創業家以外で初の代表取締役社長に就任。当時の心境と就任の理由について、青野はコロナ禍での自身の行動を挙げた。
【青野】
神田会長から社長をやってくれと言われ、びっくりして言葉が出ませんでしたですね。全く予想しない状態で、ポンと言われた感じです。
就任直前はコロナ禍だったので、私はキャッシュレスや、テイクアウト、出前など、今までのハイデイ日高があまり取り組まなかったことを、周りの猛反対を受けながらもやりました。
現場でのテイクアウトって面倒くさいんです。容器につめて箸を添えて、レジ袋に入れて、というふうに手間がかかります。スタッフにはオペレーションが崩れてしまうと言われました。
しかし、コロナ禍だったからこそできたこともあります。駅前からお客様が離れて郊外に行ったので、ロードサイドの方が安定して売れるようになりました。それを見た時に、ハイデイ日高のこれまでのビジネスモデルが少しゆらいだというか、新しいことをやらないと、新しいお客さんは入ってこないということで、新しいビジネスモデルへの取っ掛かりができました。
そういう取り組みを会長は評価してくれたのかもしれません。
経営者プロフィール
氏名 | 青野 敬成 |
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役職 | 代表取締役社長 |
生年月日 | 1974年4月3日 |
出身地 | 愛媛県 |
座右の銘 | 原点回帰 |
店長、スーパーバイザー、エリアマネージャーなどを経て、2017年に執行役員、2019年に取締役執行役員営業管理部長・情報システム室長。
2022年5月に代表取締役社長に就任。
会社概要
社名 | 株式会社ハイデイ日高 |
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本社所在地 | 埼玉県さいたま市大宮区大門町二丁目118番地 大宮門街 SQUARE 10階 |
設立 | 1978 |
業種分類 | サービス業 |
代表者名 |
青野 敬成
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WEBサイト | https://hidakaya.hiday.co.jp/ |