シュラスコ料理専門のブラジリアンレストランや、イタリアから空輸したモッツァレラチーズを使ったモッツァレラバーなど、専門性の高い海外の飲食ブランドを国内に誘致するビジネスモデルで注目を集めている株式会社ワンダーテーブル。
同社取締役の戸田史朗氏は、ワンダーテーブルの前身となる富士汽船株式会社に新卒で入社し、現在、代表取締役社長である秋元氏の右腕として、営業サポート部門とマーケティング部門を担当している。飲食業界の第一線で活躍する戸田氏だが、入社のきっかけは、意外にも飲食とは関係のないものだった。様々な苦難を乗り越え、多くの事業を成し遂げてきた戸田氏の仕事観に迫る。
祖父の背中を見て経営の面白さを知る
―ご幼少の頃は、どのようなご家庭でお過ごしになられたのでしょうか?
戸田 史朗:
幼い頃は4世代の大家族で暮らしていました。僕が生まれたころの実家は、祖父が始めた土木建築業と兼業農家を営んでおりました。実家では、セメントの材料になる石灰岩質の土地を所有しており、その中には奥行が10mくらいの小さな鍾乳洞がありました。ある時、大学の先生が視察にいらして、その鍾乳洞が「もっと奥に続いているはずだ」とおっしゃったんです。祖父がその言葉を信じて鍾乳洞を掘り始めたところ、本当に奥深くまで続いていたんです。全長約500mにはなったかと思います。そこで、その鍾乳洞を観光地化することにしました。それ以降は、土木建築業と並行して、観光鍾乳洞の経営も始めました。
―ご家族が事業を営む姿をご幼少の頃から見てこられたわけですね。
戸田 史朗:
祖父は起業家精神の持ち主でしたから、僕も、そんな祖父や父の背中を見て、経営の大変さや面白さを感じることができました。また、観光業や農業を行っていましたので、客商売や食に関する関心は高かったと思います。
内装業に夢中になった学生時代
―学生時代はどんなことに熱中されていましたか?
戸田 史朗:
中学から高校までは、部活動で柔道に打ち込んでいました。中学時代は単に身体能力の差で勝敗が決まることもありますが、高校生になると技や勝ち方を考えていかなくてはならず、厳しい試合も多くなりました。朝から晩まで練習に明け暮れていたので、勉強に関しては、集中して授業を受け、その場で済ませるようにしていました。
大学に進学した後は一人暮らしの生活費を賄うため、先輩に紹介して頂いた内装工事のアルバイトを始めました。実家が土木建築業ということもあり、大工さんやとび職の人が何もないところからモノを創り上げる様子を見ていた私にとって、内装の仕事はとても肌に合っていました。3年生くらいになると、事務所に入って図面を引く仕事も任せてもらえるようになりました。内装の仕事というのは、いかにコストを抑えながらいいモノを作るかというアイデア勝負な仕事でもあり、そこが非常に魅力的でした。大学を卒業したら、そうした内装の仕事ができる会社に就職したいと思っていました。
―御社にご入社された経緯をお教えください。
戸田 史朗:
スポーツメーカーや、地方銀行など、自分の興味のある業界をいろいろと回りました。映画を観ることも好きでしたので、映画館などを運営していたヒューマックスグループの面接を受けたのがきっかけです。偶然、最初に内定を頂いたのがヒューマックスグループでしたので、ご縁だと思い、入社を決めました。
「仕事のできない自分」に負けたくなかった
―ご入社されて、若手時代はどのようなお仕事をされたのでしょうか?
戸田 史朗:
僕はグループ採用だったので、新入社員時代は半年間ごとに各社を研修で回っていました。最初に配属された飲食店では、1か月くらいずっと洗い場の担当でしたね。それまで飲食業界の経験があまりなかったので、戸惑うこともありました。洗い物も追い付かず、アルバイトの従業員から檄を飛ばされていました。
―本来やりたかった内装の仕事でもなく、思うように仕事が進まず叱られることもある中で、心が折れることはありましたか?
戸田 史朗:
自分が仕事をきちんとこなせないのが悔しいと思っていました。辞める理由は人それぞれだと思いますが、仕事がこなせないからという理由で辞めるという選択は、僕はしたくありませんでした。半年間の研修の間に何かしらできるようになろうと決め、まずはとにかく、早く綺麗に洗うことを心掛けました。そうした姿勢を周囲の従業員も見てくれていたので、段々と新しい仕事を任せてくれるようになりました。
その後、その店が閉店することとなり、新しい店に配属になりました。そのお店が弊社の前身の富士汽船の店舗だったのです。研修期間を終え、最終的に所属先を富士汽船に決めた最大の要因は、内装の仕事に関われると思ったからでした。ボウリング場や映画館に比べ、飲食なら新規出店の数も多く、その度に内装の仕事があると思ったのです。ダイレクトにお客様の声が返ってくるという、飲食業界の面白さを研修期間中に知ることができたのも、富士汽船に入社する後押しになりました。
史上最年少支配人という重圧
―新しい店舗に配属され、最終的には責任者になられていくわけですが、経営を任されるようになった時に一番悩まれたことはどんなことでしょうか?
戸田 史朗:
最初に任された店は売り上げが低い状態でしたので、まずは実績を作ることから始めました。当時、史上最年少で支配人になることができましたが、経験も浅かったので、売り上げを上げ、コストを削って利益を残すためにできることは何かということを、来る日も来る日も考えていましたね。2店舗目、3店舗目と続いていくうちに、段々とノウハウも溜まっていきますので、業績を伸ばすための改革を実行するスピードも、自ずと速くなっていきます。ただ、改革のスピードを上げて推し進めていこうとすると、急激な変化に対し既存の従業員から反発が出てくることもありました。目標を達成させるために、どうやってコミュニケーションを取っていくかという点については、当時非常に悩み、勉強になりました。
毎日成長を実感できる仕事
―社長との出会いについてお聞かせください。
戸田 史朗:
秋元とは、秋元が前職の会社にいたときに会っていました。僕が1店舗目の支配人をした後、一度本部に配属になったのですが、そのときの上司が秋元で、そこで初めて一緒に仕事をすることとなりました。3か月間で6店舗を出店するミッションがあり、それを手伝うことになったのです。
―そんな短期間で6店舗をオープンさせるとなると、かなり大変だったかと思います。
戸田 史朗:
そうですね、確かに非常に忙しくて大変ではありました。物件契約から始まり、内装を決めて施工管理をしながら、別店舗では、オープン準備のトレーニングを行ったり、オープンした店舗があれば手伝いにいったりというのを、秋元と共にいくつも並行して行っていました。ただ、何しろ全てが僕にとって初めてのことばかりでしたから、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。昨日まで知らなかったことに挑戦することで、次の日には少しだけできることが増えていきます。自分の成長を1日1日実感できましたね。
新しい時代を社長とともに築いていく
―その当時、秋元社長からはどのような影響を受けましたか?
戸田 史朗:
当時は秋元と寝食を共にするくらい、一緒にいる時間が長かったですね。接客やマネージメントの楽しさというのは、支配人の時の経験からわかったつもりでいましたが、真の意味ではまだ理解していなかったのだと、秋元と仕事をする中で痛感しました。ブランドのコンセプトを作って、それを実現させていくという点で、飲食業界の奥深さや本当の面白さというのは、秋元から教わったと思っています。
また当時、秋元も僕もまだ20代でしたが、既存の支配人たちの多くは30代以上でした。その中で、新店をオープンさせ、若い支配人やシェフを育てていくという時期でもありました。会社にとっても新しい時代に向けた過渡期だったと思います。そうした今後に向けた、会社の新たな形についても、秋元と話していましたね。
―社長の右腕として、苦楽を共にしてこられたかと思いますが、ご自身の一番の強みをお教えください。
戸田 史朗:
僕の仕事は、秋元が考えたイメージや、理想といった抽象的な思いを具現化し、形にしていくことだと思っています。秋元と共に長年仕事をしていく中で、経営者と社員との間にある意識の差というものを埋めることができるようになりました。秋元のイメージしたビジョンや、伝えたいことを現実に落とし込んでいく精度は、誰にも負けない自信があります。
インプットからアウトプットへ
―今後の目標についてお聞かせください。
戸田 史朗:
僕は、本部に配属になってからは、社内アワードの仕組みを作ったり、研修を企画したりといった、店舗運営とは別の部分の仕事をしてきました。社内アワードで表彰される機会があると、社員自身のスキル向上に一層磨きがかかりますし、社員同士で刺激し合うことでモチベーションも上がって、良いサイクルが生まれるきっかけにもなります。社員1人1人の成長が会社の成長に繋がっていきますので、僕自身、自分が培ったノウハウをきちんと伝えていけるよう、また、仕事を任されることで成長してきたと思っていますので、「教える」「任せる」をメインに取り組んでいきたいと思います。
編集後記
社長のビジョンを的確に現実にはめ込む戸田氏の手腕によって、ワンダーテーブル社全体が1つのベクトルに向かって進むことができているのだと感じた。今後、海外をはじめ、更に出店数を伸ばしていく予定のワンダーテーブルにとって、それは大きな経営の推進力となるに違いない。
戸田 史朗/1970年11月29日、静岡県生まれ。
静岡県立浜松商業高等学校を卒業し、獨協大学に進学。大学卒業後、新卒で富士汽船株式会社(現:株式会社ワンダーテーブル)に入社。史上最年少で店舗支配人に抜擢され、その後、本部の企画部門・営業部門・管理部門のマネージャーを歴任し、現在、取締役(営業サポート部門/マーケティング部門担当)を務める。
座右の銘は「流汗悟道」。愛読書は「7つの習慣(スティーブン・R・コヴィー著)」。