4月7日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け7都道府県に発令された緊急事態宣言は、4月17日に対象範囲が全国に拡大し、5月4日、従来の期限であった5月6日から5月末まで延長することが発表されました。これにより、経済へのさらなる影響が懸念されます。

明るい材料は少ないですが、コントロールできない事象を悲観するより、今できる中で前向きな行動を模索していく必要があります。

今回は、リーマン・ショックという危機に直面し、2008年度に7,873億円の赤字を計上した企業のトップに就任し、その4年後に創業以来最高額となる営業利益5,328億円を実現した経営者をご紹介します。

一度はピンチに陥りながら、見事V字回復を果たした改革とはどのようなものなのだったのでしょうか。

強い覚悟で聖域なき改革に着手

「技術の日立」の誉れが高い株式会社日立製作所(以下、日立製作所)は、言わずと知れた日本のトップメーカーです。

電力、原子力、鉄道、ネットワークインフラなどを手がけ、9兆4,806億円(2019年3月期)の売り上げを誇る大企業も、あのリーマン・ショック時には当時の国内製造業で過去最悪の赤字を計上しました。

その経営再建のため2009年、日立製作所の執行役会長兼執行役社長に就任したのが川村隆氏(現東京電力ホールディングス株式会社 取締役会長)です。

出典元:【川村隆氏インタビュー】50歳までは、まだまだやれる | 経済産業省 METI Journal

川村氏は1962年に同社に入社後、工場長や電力事業本部長、副社長などを歴任し、日立マクセルの会長を務めた人物です。本社の経営を立て直すため、子会社の役員が呼び戻されるという異例の人事は、当時注目を集めました。

川村氏が当初打診されたのは社長職でしたが、期間限定でありながら、自ら会長職との兼任を申し入れたそうです。

それは「最後の責任は自分が取る」という覚悟からであり、強い意思を持って日立製作所にメスを入れる決断をしました。

花形のテレビ事業から撤退、将来性ある事業の「選択と集中」に注力

川村氏がまず着手したのが「選択と集中」による事業の整理です。

日立製作所は国内トップクラスの技術力を武器に、幅広く事業展開を行ってきました。この総合力は強みになり、同社の成長を強く後押しました。

ところが1990年代のバブル崩壊の頃から、収益性の低い事業が全体の収益に影響を及ぼしはじめ、リーマン・ショックでさらに悪化、全社的に財務状況は悪化の一途を辿ります。

川村氏は情報通信、電力、インフラなど将来性のある事業を「選択」し、ヒト、モノ、カネなどの経営資源を「集中」させることを実践します。

逆に収益性が低く、今後の立て直しも難しい事業からはバッサリと撤退を決めました。

戦後、三種の神器と呼ばれ、家電メーカーの象徴的存在であったテレビ事業も例外ではありませんでした。成長が見込めない国内の薄型テレビ生産と携帯電話、パソコン用HDD事業からは完全に退く決断をします。

さらに、次の3つの取り組みにも着手しました。

1.スピーディな意思決定のため、最終決断は6人のみで実施
日立製作所が危機的な状況におかれた2009年、早急な判断が必要だった最初の1年限定で、社長の川村氏と副社長のみで重要事項を決定しました。

その結果、傷口を広げず、最小限にとどめることを可能にしました。

2. 社内カンパニー制の導入
社内を分社化(カンパニー)し、事業内容ごとに独立採算制を採ることを決定します。

それぞれの事業部の経営状況が明らかになるメリットがあり、お互いが競い合う相乗効果も生まれました。

3. 上場子会社の完全子会社化
将来性が見込める上場子会社を完全子会社化し、各子会社の利益を本社に集中させます。

加えて単独で収益の向上が見込めない会社やコア事業とのシナジーが得られない子会社は売却を進めました。


この抜本的改革に踏み切った理由について、川村氏はこう振り返っています。

長い歴史を持つ会社は特に、“老化した”事業をいくつも持っています。お客様のニーズは時代とともに常に変わる。それに合わせて事業も変わっていかねばなりません。人、モノ、カネを適切な事業に振り替えることが必要です。
日立を復活させた「ラストマン」の精神: 日本経済新聞(2016年6月25日)

経営の効率化を目指した積極的な改革手法によって、日立製作所は赤字から脱却。

川村氏が陣頭指揮を執ってから5年後の2013年、営業利益5,328億円を計上し、見事Ⅴ字復活を果たしました。

どんな時でも「最終決定者」たる覚悟を持つ

川村氏は会長兼社長就任時、「最後の責任は自分が取る」という思いを体現する「ラストマン」の意識を持って日立製作所の改革に取り組んだといいます。

それは従業員も同じで、誰もが「ラストマン」になり得るという意識を持っていてほしいと、川村氏は言います。

日々の小さなことでも、自分が最終決定者であることを意識しながら、会社や人生の様々な場面で、経験を積むことが大事なのです。『小さくてもこの分野に関しては自分は社内の第一人者だ』と思える場面は、人生の中で必ずあります。
日立を復活させた「ラストマン」の精神: 日本経済新聞(2016年6月25日)

いつでも、誰もが最終決定者になり得る、その思いを強くしたのは日立製作所の副社長時代に経験した出来事がきっかけとなっています。

1999年、出張で羽田発千歳行きの全日空機に乗り込んだ川村氏は、離陸して1時間後、窓の景色が変わっていないことに違和感を覚えました。

ほどなく、「当機はハイジャックされました」というアナウンスが機内に流れ、乗客乗員は混乱状態に陥ります。

急降下する機内の中で「もう駄目だ」と思ったその瞬間、奇跡的に機体が急上昇し、墜落を逃れました。

たまたま乗り合わせた、非番の全日空パイロットの山内氏が墜落寸前にコックピットのドアを蹴破って突入し、犯人から操縦桿を奪い返したのです。

しかし、実はその行為はパイロットのマニュアルからは逸脱していました。ハイジャックの際は基本的に、パイロットは犯人に従い、要求を受け入れるというルールになっていたのです。

この経験から、川村氏は多くの気づきを得たと言います。

この事件は、私の生き方を問い直す大きなきっかけになりました。人はいつ死ぬか分からないのだから、一日一日を大切に生きなければという自覚が芽生えた。「自分は、果たして山内さんのような"ラストマン"の役割を果たすことができるだろうか」。そんな思いも、胸に去来しました。
日立を復活させた「ラストマン」の精神: 日本経済新聞(2016年6月25日)

九死に一生を得た川村氏は、この機長のように、どんな時でも臨機応変に「ラストマン」たれるかを常に意識するようになったそうです。

まとめ

「日立という企業が存続すること自体に意義がある」とも語っていた川村氏。

選択と集中で的確に事業を見極め、スピーディな意思決定を実践したのは、日立製作所で働く従業員や株主への責任を果たすためでもありました。

どんなに困難な状況におかれても臨機応変に、個々人ができる責任を果たすこと。そして1日1日を大切に生きることが困難を乗り越えるための糧となり、未来を明るくするきっかけとなるかもしれません。

同特集の他の記事はこちら

【「コロナ大恐慌」を突破せよ 01 ~株式会社ニトリホールディングス 代表取締役会長 似鳥昭雄~】
【「コロナ大恐慌」を突破せよ 02~キヤノン電子株式会社 代表取締役社長 酒巻久~】
【「コロナ大恐慌」を突破せよ 03~富士フイルムホールディングス株式会社 代表取締役会長・CEO 古森 重隆~】
【「コロナ大恐慌」を突破せよ 04~日本航空株式会社 元代表取締役会長 稲盛和夫】

【記事掲載日 2020.5.8】

▼参考サイト
日経メディアマーケティングトップインタビュー(第16回 東京電力ホールディングス 会長 川村隆様 | 日経メディアマーケティング株式会社)(2018年12月12日)
日立を復活させた「ラストマン」の精神: 日本経済新聞(2016年6月25日)
日立“製作所”、サービス企業へ変貌…8千億円赤字から驚異の復活、自己否定的改革に成功(Business Journal 2019年12月25日)
東芝凋落の一方、立ち直った日立 英断の裏に「ハイジャック」の記憶 (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)(2016年3月22日)
全社員に「自分が責任を取る」精神で日立はV字回復 | Biz Drive(ビズドライブ)-あなたのビジネスを加速する(2018年3月2日)
日立製作所のこれまで・動向を解説:日経ビジネス電子版(2019年11月15日)