低層賃貸マンションシリーズ「LEGALAND」の開発をはじめとした、様々な不動産に対し最適なバリューアップを施し資産価値を高めて販売する「不動産ソリューション事業」や、国内最大級の不動産系WEBサービス「YANUSY」など、総合不動産事業を展開している株式会社LeTechは、長年同社の成長をけん引してきた取締役会長の平野哲司氏の起業から始まった。
もともと半導体事業に就いていた平野氏が、なぜ東証上場不動産会社の経営者になったのか。その波乱万丈のストーリーを聞いた。
転職を経て天職にたどり着く
ーー不動産業界に入るまでの経緯を教えてください。
平野哲司:
私は慶応義塾大学法学部に入り、在学中から、慶応旅行企画クラブというサークルで学生たちの旅行を企画・運営するなど、起業家のようなことをしていました。
大学卒業後は東京エレクトロン株式会社に入社しました。1980年代の日本は半導体産業の勢いがものすごくあり、九州がシリコンアイランドと呼ばれていた時代です。私は東京エレクトロンに6年半在籍し、その間ずっとアメリカ・シリコンバレーにあるラムリサーチ社の半導体製造装置を担当していました。この会社の代理店契約が住友金属工業株式会社(現日本製鉄株式会社)に移ったのを機に、私も同社に転職しました。
その後、私は仲間3人で有限会社フロンティアという広告代理店を設立しました。仲間2人は最新機種だったマッキントッシュ(現在はMac)のパソコンで、当時誰も扱えなかったイラストレーターなどのソフトを駆使し、私は営業を担当していました。
じつはこのとき、世間はバブル崩壊後の大不況でした。サラリーマン時代は会社組織の中にいたため実感がなかったのですが、外に出ると「世間はこんなに大変な状況なのか」と思い知りました。世間の荒波にもみくちゃにされ、残念ながら1年半でこの広告代理店をつぶしてしまいました。
事業に失敗し、借金返済のために住んでいたマンションを処分したのですが、そのときに担当していただいた不動産屋とのご縁から、地元の不動産会社に入社し、そこで初めて私の不動産屋としてのキャリアがスタートしました。
不動産の仕事を始めてから、初めて自分が天職と出会えたことを実感しました。不動産営業マンとして前線に立ち、汗をかきながら自身の知恵と工夫によってお客様に喜んでもらう。そしてその結果会社が成長していく。私はそこに大きなやりがいを感じていました。
それまでは、仕事というものは言われたことをしっかりと遂行することが仕事だと思っていました。しかし、33歳になって初めてその思い込みが外れ、仕事は楽しく、やりがいのあるものだと知ったのです。
社員4人の小さな不動産会社で、任意売却の仲介業務を8年間務めました。不動産業界は独立しやすい業界ということもあって、私も自分のやりがいや夢を自身の会社で実現したいと考え、2001年に独立しました。
新しい仲間に支えられて不動産デベロッパーへと転身
ーー独立して、最初に苦労したことを教えてください。
平野哲司:
1995年頃から、銀行すらも破綻する時代になりました。不動産相場も下がるリスクがある環境のなか、弊社は自社で不動産を保有せずに任意売却を専業とし、会社は順調に成長していきました。
しかし、ビジネスモデルに寿命というのはあるものです。2008年のリーマンショック、そして2009年に「中小企業金融円滑化法」が施行されてから、任意売却の案件がみるみる減っていきました。
そのような環境の変化から任意売却以外の事業として、物件を仲介せずに自社で買い取ってリフォームする「バリューアップ」を行いました。この事業はかなりの利益を出すことが出来ました。今まで物件の仲介しかしてこなかった私は「こんな儲かる物件を人に仲介していたのか」とショックを受けたほどです。
また、リーマン・ショックの影響で、多くの不動産会社が倒産し、人材の流動化が起こりました。弊社には、そのような流れから転職してきてくれた社員が何人もいます。これまでの事業の繋がりから「平野と仕事がしたい」、当時の「リーガル不動産で仕事がしたい」と希望していただき入社に至ったのですが、いずれも非常に優秀な社員達です。元々は不動産開発の経験に乏しい弊社が仲介業者から開発業者へと転身できたのは、まさにそのようなノウハウを持って弊社に参画してくれた彼らのおかげです。
そのように事業の核となる「人材」については優秀な社員で充足されていったのですが、仲介業者である弊社が開発事業を進めるにあたっては「資金力」が課題となりました。自分達で不動産を持たない仲介業者はそれほど大きな資金力は必要とはならないですが、自社開発を行うとなるとこれまでとは違った世界になっていきます。そこで私は銀行に融資の申し込みに行くと、大変驚いたのですが「平野さんやったら、いつでも貸しますわ」と笑顔で融資をしてくれました。いままで行っていた仲介ビジネスはリスクが少なく、事業の借金もゼロだったこと、そしてリーマン・ショックという大変な目に遭いながらも無傷で生き延びたことを評価していただけた結果です。こうして私達はノウハウや信頼といった、創業から築いてきた財産を基盤に新しい事業を進めていくことになりました。
ーーずっと大阪で事業をしてきた貴社が、東京に進出したきっかけを教えてください。
平野哲司:
事業をはじめるきっかけは、「自分のやりたいこと」か「この人と仕事をしたい」の2パターンがあると思います。私は後者で、「一緒に仕事をしたい」と思った人と実現したいことを、事業計画として立案します。
リーマン・ショックの転職組の中で「東京で働きたい、東京のマーケットに展開していくべきだ」と言う者達がでたときには、彼らのために東京支店を設立しました。
東京では当初、戸建て分譲を計画していましたが、入り組んだ土地の分譲は難しそうだと考え、計画変更し、改めて東京のマーケットリサーチを行いRC造の賃貸マンション「LEGALAND」を建てて販売したところ、これが見事に成功しました。
この成功体験をもとに戸建分譲から賃貸マンション開発に切り替え、評価を得たことで弊社の東京のメインプロダクトとなりました。現在、都心をメインに展開する低層賃貸用マンション「LEGALAND」は、弊社主要ブランドとして事業をけん引しています。
上場を果たし、再生と世代交代で新たな価値を創造する
ーー上場のきっかけは何ですか?
平野哲司:
私が親しくしている先輩から「大阪のマーケットが寂しくなった」と言われたことが最初のきっかけです。大阪では、リーマン・ショックの影響で当時多くの会社が倒産し、上場する会社はほとんどありませんでした。先輩から「大阪の中で上場できるのはお前の会社ぐらいだ。お前は山の頂に登りたいとは思わんか」と言われました(笑)。
実際弊社の業績は拡大していましたし、素直に「自分の会社が大阪を元気にできたらかっこいいな」と、先輩の言葉に共感しました。その後、私は上場のメリットやデメリットを検討しながら、遂に東京証券取引所へ上場をすることを決断しました。上場にあたってはいろいろな人から反対を受けることもありましたが、会社としての体制が整備されると共に、優秀な方達に入社していただいたりと、今は胸を張って「上場して良かった」と思っています。
ーー取締役会長にご就任されました。社長交代の経緯を教えてください。
平野哲司:
リーマン・ショック後にも業績は順調に推移してきたものの、コロナ禍では特にホテルや民泊といった宿泊系の売り上げがほぼゼロになるというダメージを受けました。社員には大変な苦労をかけました。その結果、大変残念なことに社員数は減りましたが、少数精鋭で筋肉質な組織になったと私は考えています。そんな社員達の努力のおかげで、現在は出直しを経て新たな成長カーブを描き、拡大のフェーズにあります。アクセルを踏み、未来に向かってしっかりと努力する時期ですので、社員全員がワンチームとなって同じ方向を目指していきたいと思っています。
そして、コロナ禍で大きな損失を出したものの、業績回復を果たしたこのタイミングで、LeTechの経営を若い世代に承継していく目的で社長交代を図りました。
新社長はすごく優秀で、発想が非常に豊かです。彼は不動産業界の出身ではありませんが、経営者としてとても共感でき、弊社をより良い姿に発展させてくれると思っています。
不動産業界には、まだまだアナログ的な業務や慣習が残っています。新社長には、デジタル化や効率化で生産性の向上を図りながらも、これまで社員達が紡いできた「LeTechらしさ」を武器に事業を進めてほしいと思います。
編集後記
バブル崩壊やリーマン・ショック、コロナ禍などの時代の荒波を乗り越えてきた平野会長。人との出会いをはじめ、さまざまな人とのつながりを大切にしてきたことが、局面の打開につながったと感じた。会社の組織は効率化され、利益を生み出す体制が整いつつあると語る平野会長の笑顔に、同社の多大なる可能性を感じた。今後の飛躍が楽しみだ。
平野哲司(ひらの・てつじ)/1959年生まれ、三重県出身。1982年に慶応義塾大学法学部を卒業。東京エレクトロン株式会社等での営業を経て1993年に不動産会社に入社し、2001年に株式会社リーガル不動産代表取締役に就任。不動産開発事業への転換等、事業拡大・東京証券取引所への上場を果たした。2023年10月より取締役会長に就任し、経営を後進に託しながらも長年の経営・不動産知識で企業の発展に貢献している。