着順で決まるスポーツのゴールでの着順判定を、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。株式会社JPFは、3代にわたってその着順判定の技術を培い、現在は、競輪場の運営、映像制作からイベントまで、幅広い分野で活躍する企業へと発展した。
競輪界における業績回復の立役者となった株式会社JPF。今回は、代表取締役である渡辺俊太郎氏から、社長に就任するまでの経緯、業績回復のための努力、そして今後の展望などについて聞いた。
写真判定の草分け企業の社長になるまで
ーー貴社の歴史と、JPFの代表取締役になるまでの経緯をお聞かせください。
渡辺俊太郎:
僕の祖父が、理化学研究所で映像や音声に関わる研究に従事しており、その中でも連続写真の技術開発・研究を行っていました。この技術が1940年の東京オリンピックの競技での写真判定に活用される予定でした。
しかし、太平洋戦争で東京オリンピックは実現せず、戦後、競輪が始まるタイミングで競輪を始めとする競馬やボートレースといった公営競技、そして陸上競技など、いわゆる着順で決まるスポーツにこの写真判定システムを導入していきました。その後、審判ビデオの技術開発へも力を注ぐようになりました。
弊社の経営権は、やがて僕の父から親族へと変わりました。親族が経営していた頃、競輪界全体はかなり衰退傾向にあり、弊社の業務も、着順判定の写真、審判ビデオ、テレビ中継くらいでした。そんな中、2007年に親族から僕に代表取締役が引き継がれることになったのです。
ーー大学卒業後は弁護士として活躍されていますが、いずれ貴社の社長を継ぐという思いはありましたか?
渡辺俊太郎:
僕はとにかく弁護士の仕事に非常にやりがいを感じており、顧客も多かったのです。性格的にサラリーマンは向いていない気もしましたし、弊社の経営の詳細も知りませんでした。だから、僕が弊社の役員になったときも、会社経営への興味もあまりなく、親族が経営の主導権を持っていたことが当時会社を継がなかった要因の一つと言えます。
ーー代表取締役になって意識はどのように変わりましたか。
渡辺俊太郎:
競輪場全体の運営業務を含め、競輪業界について懸命に勉強しました。時代が変わってきているものの業界は戦後から現在まで、長年にわたってそれまでの慣習が維持されていました。
だから、新しいことに取り組めば収益は何倍にもなると考えたのです。いろいろなことを試していくうちに面白くなってきましたし、この業界はまだまだ伸びしろがあり、社会的価値もやりがいもある、非常に興味深い事業だということに気づいたんです。そして、それに気づくことによって責任も重くなってきました。
競輪場のイメージアップへの取り組み
ーー渡辺さんが社長に就任されてから、様々な挑戦をし、競輪業界に大きなインパクトを与えましたね。その要因は何でしょうか?
渡辺俊太郎:
そもそもスポーツベッティング(スポーツの結果を予測し、その結果に賭ける行為)自体の価値が高いことと自転車そのものも社会的に注目度が高いです。
自転車競技自体も70年の時を経て、種目数が増えたり、技術が向上していったりとファン層を拡大していっているにも関わらず、自転車種目の一つである競輪そして競輪業界は大きな変化がない中でもそこそこの売上を維持してきました。まだまだ伸びしろがあるということを感じています。
ーー競輪業界に先駆けて実施したことはどんなことがありますか?
渡辺俊太郎:
競輪場を市民に一般開放し、市民が自転車や自転車競技に親しむ場所をつくっています。具体的には、競輪場を市民に開放したり、高校生や大学生が練習する場所として提供したりして、インターハイやインカレで勝てる選手を育てる場所にしようとしています。
これらは代表取締役になってから一番最初に手掛けたことですが、苦労も多く、周りからの抵抗も大きかったのです。ですが、大変な課題ほど、それに挑戦することが僕にとっては刺激的です。誰でもできるような簡単なことでは、成長する機会を見つけることは難しいからです。
たとえば富山競輪場に関して言うと、元来、かなりガラの悪い競輪場でゴミもたくさん落ちていました。しかし、市民が楽しめる場所として開放するうちに、以前はとても子供を連れて来られる場所ではなかった競輪場にも、子供連れでお客さんが来てくれるようになりました。親御さん達は「民間委託になってこうやって子供が遊べるようになった」と言ってくださり、結果的に来場者が非常に増えました。
スポーツで日本を豊かにしたい。会社はそのための“器”である。
ーー競輪のイメージを変える過程で、大切にした信念はありましたか?
渡辺俊太郎:
競輪は国で認められたギャンブルの一つであり、業界全体として収益金をどこに還元していくかが非常に大事だと思っています。
競輪で儲かったお金は自転車競技法の中で「国民の体育振興に役立てることでギャンブルを許可する」という条件もあり、競輪場は体育の振興をやっていく必要があります。
子供たちの体力や運動能力の向上を図っていく中で、いろんなスポーツで活躍する子供たちを育て、その中で自転車競技の選手や競輪選手になった子達がまた競輪場に帰ってくる循環ができれば、競輪のイメージも変えることができるのです。
イメージを良くするために何かをするのではなく、当たり前のことを当たり前にやることでイメージは当然良くなっていきます。さらに、僕は競輪業界だけでなく、スポーツ業界全体を変えていくという気持ちでいます。そこに賛同してくれる人がいてくれたら嬉しいです。
ーー貴社が今後続けていきたい取り組みは何でしょうか?
渡辺俊太郎:
「お客さんが来て、見て、楽しめるものを作り、売っていく」ということです。具体的には、企業とタイアップして新しいことを始めたいと考えています。それを実現するには、ある程度のスピード感も必要です。特に今の若い世代はスピード感を求めていることが多いからです。
また、弊社に「スポーツで日本を豊かにしたい」と考える人たちが集まってくれることを希望しています。僕は会社を“器”と捉えています。
つまり、会社という“器”を使って、弊社の社員、パートナーの企業、あるいは個人に、新しいことにチャレンジしてほしいのです。人間はやはり一生勉強ですから、受験勉強で終わりではなく、会社で研修が終了しても、常に学び続ける必要があります。そして何ごともやってみなければ分からない。挑戦してうまくいかないとき、やめてしまえば失敗になります。挑戦をやめなければ失敗にはならず、未来への糧になっていくと考えています。
編集後記
弁護士としての実績を重ねつつ、公営競技場の事業再生に尽力する渡辺俊太郎氏の目は、競輪業界だけでなくスポーツ業界全体に向けられている。
「競輪場を利用した子供たちの運動能力の向上」という非常に斬新な発想に、渡辺氏の温かい人柄がうかがえる。今後も公営競技だけでなく、幅広い分野で渡辺氏の思い描く未来が実現されることを願っている。
渡辺俊太郎(わたなべ・しゅんたろう)/1967年千葉県生まれ。1990年慶應義塾大学法学部卒業後、1996年に弁護士登録。2002年翼法律事務所を開設。2007年、日本写真判定株式会社(現:株式会社JPF)の代表取締役に就任。2014年早稲田大学大学院トップスポーツマネジメントコース卒業。修士論文「競輪場が果たすべき役割についての研究」を発表。2017年、公益財団法人日本自転車競技連盟の理事に就任。2018年、一般財団法人日本サイクルスポーツ振興会の代表理事に就任。2019年、公益財団日本サイクリング協会の理事に就任。