
京懐石の名料亭『菊乃井』をはじめとする名店を率いる株式会社菊乃井。同社代表取締役の村田吉弘氏は、和食のユネスコ無形文化遺産への登録など日本料理を世界に普及することに力を注いできた。料亭の枠を超えて包括的に活動する村田社長の胸中にあるという日本の将来に対する強い願い、日本料理にかける思いをうかがった。
フランスで芽生えた日本の食文化への思いを携えて実家・菊乃井に入る
ーーフランスで過ごした1年間の中で、感じたことを教えてください。
村田吉弘:
家業の日本料理ではなく、フランス料理の世界で生きていくつもりで、大学3年生のときに約1年間フランスで過ごしました。しかし当時のフランスは外国人労働者を受け入れるような状況ではなく、ソルボンヌ大学の学食で食事を取りながら、バックパッカーとしてヨーロッパを放浪する生活を送っていました。
その中で、ヨーロッパの人たちは自国の文化に強い愛着を持っていることを強く感じました。フランス生活の経験が、私自身の日本文化や日本料理への眼を開かせ、「いつか日本料理を世界に広げたい」という決意につながったのです。
ーー帰国後に入社した菊乃井の当時の状況と注力したことをお聞かせください。
村田吉弘:
大学卒業後、名古屋の料亭『か茂免(かもめ)』で3年間修行を積みました。その後、菊乃井に入ったのですが、料理人たちが社長の長男である私に気を遣いすぎることが多く、調理場の雰囲気も良いとはいえませんでした。そこで、1976年に木屋町に自分の店を持たせてもらうことになったのです。
木屋町のお店はお客さまが少なく、空き時間が多かったので、改めて調理の理論をじっくり勉強し直しました。和食、洋食、中華の料理本を片っ端から読んで、フランスで目にした調理法を取り入れながら、試行錯誤を重ねていました。
自分の思う味を提供することで客足が増える
ーーその後、木屋町店は「予約の取れないお店」として繁盛しますが、転機は何だったのでしょうか?
村田吉弘:
京料理たん熊の先代からいただいた言葉が転機となりました。ある時、本店の父のレシピ通りに味付けした木の芽和えをお出しましたが、私自身はレシピ通りの味付けでは少し甘いと感じていました。その話をすると、先代に「自分がうまいと思う料理を出せば良い」と諭されたのです。
それ以来、父のレシピを踏襲しながらも、自分の納得できる味付けで料理をつくるようになりました。すると、次第にお客さまが増えてきたのです。私の心にあった迷いが消え、自分の気持ちに素直になった味をつくれた瞬間でした。1979年には今の場所に店を移し、「露庵(ろあん)」という名前の、肩ひじ張らずに懐石料理を楽しめる店になっています。
日本料理を世界に広げることは日本の将来への備えでもある

ーー特定非営利活動法人日本料理アカデミーの理事長時代には、和食のユネスコ無形文化遺産の登録に尽力されました。
村田吉弘:
「無形文化遺産」でいう和食とは、日々の一汁三菜や正月のおせち料理なども含めた日本人の伝統的な食文化です。健康的で季節感あふれる日本の食文化の魅力を世界の人々に伝えたいという思いで活動していました。
京料理が世界に知られるためには、日本の食文化全体が国際社会の中にしっかりした基盤を持っていることが重要です。この考えは、学生時代のフランス体験に基づいています。
無形文化遺産の登録は経済的にも有意義だったと思います。2013年12月4日に和食が無形文化遺産に登録されたころの海外の日本料理店は約5万5000店でしたが、10年後の2023年には18万7000店にまで増えています。
また、農林水産物の輸出額は、登録された2013年の5500億円から2022年には1兆8300億円に伸びています。やはり登録によって、世界中で日本の食に対する需要が増えたのが要因だと思います。
ーー2023年5月の広島サミットでの料理を監修されたそうですね。
村田吉弘:
先進国の首脳が広島に集まるので、その土地の食文化を知っていただきたいという思いがありました。お好み焼きを提供したことで、広島の皆さんにも喜んでいただけたことは、私にとってもうれしかったです。
料理には狙いがあります。あえて広島のお好み焼きを取り入れることで広島以外の方にも日本料理に関心を持っていただきたいと考えました。お好み焼きという親しみやすいメニューだけではなく、高級な日本料理にも興味を持っていただけるようにするのは、料理人の腕の見せ所でもあります。
ーー2024年9月には京都府立大学のウェブサイトで日本料理大全が無料公開されましたが、どういう意図があったのでしょうか?
村田吉弘:
料理には、「なぜこの味が生まれるのか」「どうしてこの調理法になるのか」といった根拠があります。そうした日本料理の理論を世界中に定着させることは、実は将来の日本にとっても重要なことだと考えているのです。
現状から推しはかると、50年後の日本は社会構造的にも産業的にも大変厳しい状況になるといわれています。そのときに、世界規模で日本料理が定着しているならば、日本の農林水産物の市場は広がります。将来の日本のために料理人として貢献したいという思いで、和食を文化遺産登録させるための活動を行っています。
人々の暮らしの中に根付いた日本料理屋でありたい
ーー社長の仕事の領域を超える活躍ですが、料理に託す思いをお聞かせください。
村田吉弘:
私の根底にある考えは、料理屋は公共の場であり、菊乃井も基本的には「飯屋」だということです。飯屋には、日常的に立ち寄って食べる店もあれば、「大切な席だから」とかしこまって食べる店もありますが、どちらも私たちの暮らしにとって大切な場所です。
菊乃井は、後者のような特別な日に訪れるお店ですが、限られた人しか来ない場所にはしたくありません。働く普通の人たちが、「せっかくの大事な日だから、菊乃井の部屋に集まって、皆でおいしい日本料理を食べよう」というときに選んでいただける飯屋でありたいと考えています。
だからこそ、誰もが日本料理というものを知り、愛していただけるようになるために、自分にできることを精一杯取り組んでいきたいのです。
編集後記
腕の立つ料理人というと、料理の道に邁進する無口な職人の姿をイメージしがちだが、菊乃井の村田社長は、料理人としての道を究めるだけでなく、日本料理と和食文化を世界へ発信することにも精力的に取り組んできた。その活動の根底には、日本の未来を見据えた強い使命感がある。村田社長の活躍が、次世代の後継者たちの育成へとつながることを期待したい。

村田吉弘/1951年、料亭「菊乃井」の長男として京都府に生まれる。立命館大学在学中、フランス料理研究のため渡仏。卒業後は名古屋の「か茂免」で修行を積む。1976年に菊乃井木屋町店を開店、1993年に株式会社菊の井の代表取締役に就任。2004年に赤坂菊乃井、2017年には無碍山房を開店。「日本料理を正しく世界に発信」「公利の為に料理を創る」を信条とし、15年連続ミシュラン三ツ星を獲得している。