
大阪・千日前道具屋筋商店街で70年以上にわたり、包丁専門店「堺一文字光秀」を営む一文字厨器株式会社。プロの料理人からも厚い信頼を得る同社は、包丁の販売だけでなく、研ぎ直しや使い方のサポートまでを一貫して手がけている。2024年には、店舗2階に日本の食文化と道具文化を興すためのイベントスペース「一十一(いちとい)」をオープンした。伝統を守りながら革新に挑む、3代目社長の田中諒氏に話をうかがった。
祖父の思いを未来へつなぐために事業を継承
ーーどのようなきっかけで家業を継ごうと思われたのですか?
田中諒:
私が17歳のときに、創業者である祖父が亡くなったことがきっかけです。祖父は事業家として周囲から尊敬されており、孫である私をとても可愛がってくれる優しい人でした。私にとって身近な人が亡くなるのは初めての経験でしたので、大きな喪失感を覚えましたね。
お葬式が終わり店に戻ったとき、なんとなく祖父の思いがそこに生きているような、不思議な感覚に包まれたのです。社員やお客様、店に置いてある包丁一つひとつに祖父の意思が宿っている感覚を覚え、「人は亡くなっても、その思いはなくならない」と実感しました。そして、私が事業を継ぐことで、祖父の思いをずっと未来につなげていけると思ったときに、「継ぎたい」とはっきり決意したのです。その後は、社会人としての基礎を身につけるため、Web広告会社に8年間勤めて、弊社に入社しました。
「熱量」と「アイデア」で日本の食文化を守る

ーー貴社の事業内容をお聞かせください。
田中諒:
大阪・難波の千日前道具屋筋商店街で、「堺一文字光秀」という包丁の専門店を営んでいます。ただ包丁を売るだけでなく、使い方のサポートや包丁研ぎをはじめとするメンテナンスも行い、プロの料理人からもご信頼をいただいています。
ーーイベントスペース「一十一」について教えてください。
田中諒:
「一十一(いちとい)」は、食文化と道具文化を興す場所として、2024年10月に店舗2階にオープンしました。「一十一」という名前は、店の愛称である「一文字」の「一」と、このプロジェクトに賛同してご参加いただいている「十一者」に、「社会に問い(とい)を立てよう」という意味をかけて名付けました。
この「十一者」は、日本の食文化や道具文化を担っている料理人や道具職人などをはじめとして、調理師専門学校などの教育機関、行政機関の方にもご参加いただいています。
ーーどのような課題意識からこの取り組みをはじめたのですか?
田中諒:
日本の食文化は世界でも非常に評価が高く、2024年、各レストランが獲得したミシュランの星の数を都市ごとに足し上げると、1位に東京、3位に京都、4位に大阪がランクインしています。また、包丁などの道具文化も同じように高く評価されています。にもかかわらず、料理人や道具のつくり手、つまり日本の食文化を担っていく人は減り続けており、そこに対してアクションを起こしていかなければと感じたのです。
そのためには「熱量」と「アイデア」が必要だと考えました。これまで千日前道具屋筋商店街は、「モノ」を供給することで食文化を支え続けてきましたが、アイデアをもとにアクションを起こすという「コト」は行ってきませんでした。ならば、それが実現できる場所をつくろうということで始めたのが「一十一」です。
参加してくださっている「十一者」は、それぞれ違うフィールドで次の時代に対してアクションを起こしています。そういった方々と意見交換をして新しいアイデアを得て、それぞれが自分のフィールドでアクションを繰り返していけば、食文化や道具文化がより良いものになるのではないか、と期待しています。
守るべき多様性と歴史を、次世代へつなげていきたい
ーー経営において重視されている価値観をお聞かせください。
田中諒:
私が大切にしているのは「多様性を守ること」と「長期的な視点を持つこと」です。たとえば、千日前道具屋筋商店街は、この場所だからこそ生まれた独特の文化がある場所です。しかし、最近は地価が上がったことにより、テナントとして貸し出す流れが進み、チェーン店が増えてきています。それが悪いわけではないですが、昔から続く個性的な街並みがあるからこそ、興味を持ってもらえると考えているので、商店街の一員として多様性を尊重しながら守っていきたいという気持ちを大切にしています。
また、長期的な視点も重要です。現在、海外投資家が日本の道具文化に目をつけ、高額で職人の技術を求めるということが起きています。もちろん良い面もありますが、それに依存しすぎると、投資家たちが撤退したときに大きなダメージを受けてしまうでしょう。短期的な利益だけを追うのではなく、10年、20年先を見据えて考えることが大切です。「一十一」をはじめとして、新しい取り組みというのはすぐに利益にはつながりませんが、数年後には利益や新商品などなにかしらの形になって返ってくると信じています。
ーー今後の展望を教えてください。
田中諒:
弊社は創業以来、ご購入いただいた包丁に研ぎ直しサービス券をお付けすることで、お客様がどのように包丁を使っているのか把握し、商品開発に活かしてきました。今後はそれをさらに発展させ、テクノロジーを活用して包丁の使用データを詳しく分析していきたいと考えています。具体的には、3Dスキャナーを使い、研ぎ直しで預かるたびに包丁の状態を分析し、どの包丁がどのように使われ、どの程度消耗するのかをデータ化する予定です。その情報をもとに、新しい包丁開発や最適な研ぎ方の提案をしていきます。
また、「一十一」のイベントを通じて、お客様との接点をさらに増やしたいとも考えています。定期的なアンケートやインタビューを実施し、お客様のニーズをより深く理解することで、新しい商品やサービスの開発につなげていきたいですね。
編集後記
昭和、平成、令和と時代は移り変わり、包丁を手にとる人々の姿も変わってきた。しかし、道具に込める思いと、それを託す相手への敬意は、いささかも揺らいでいない。難波の商店街で受け継がれてきた「包丁を売る」という仕事が、文化を守り育てる大きな使命へと進化していく様子に感銘を受けた。

田中諒/1985年生まれ。同志社大学卒業後、Web広告会社に入社し、8年間勤務。企画営業、アドテクノロジー部門などを担当した。2017年、家業である一文字厨器株式会社に入社。2021年、辻調理師専門学校の臨時講師に就任。2022年、代表取締役就任。2024年、食文化、道具文化のためのイベントスペース、「一十一(いちとい)」をオープン。