
130年以上の歴史を誇り、日本の酪農・林業の礎を築いてきた小岩井農牧株式会社。同社は第一次産業を基盤としながら、食品事業や観光事業といった分野にも進出し、独自の6次産業化を推進する。また、敷地内に現存する21棟の建造物は、稼働しながら保全される「農業近代化遺産」として国の重要文化財に指定されている。牛飼いになることを夢見て入社し、商品開発から経営企画まで多彩なキャリアを経てトップに就任した代表取締役社長、辰巳俊之氏に、伝統と革新を両立させる経営哲学と、未来への展望を聞いた。
牛飼いへの憧れから始まった多彩なキャリアの道筋
ーー社長のキャリアの原点についてお聞かせください。
辰巳俊之:
大学1年生の夏に経験した、北海道での酪農家の実習がキャリアの原点です。サラリーマン家庭で育った私にとって、父が夜遅くに酔って帰宅する姿は日常でした。そのため、北海道で見た家族が一丸となって働く光景は衝撃的でした。そこでは、小学校低学年の子どもまでが牛舎で手伝いをしていたのです。その姿に深く感動し、「これこそが人間の生き様だ」と感じました。
その体験から「牛と共に生き、苦労を共にしたい」と強く思うようになり、弊社への入社を決めました。入社後の約10年間は、念願だった酪農の現場で朝早くから夜遅くまで働く毎日で、朝5時の搾乳開始に合わせて、4時半過ぎには牛舎へ行き、夜の9時ごろまで働いていました。
ーー現場を10年経験された後、本社への異動によってキャリアはどのように変わりましたか?
辰巳俊之:
本社では、ドイツのハム・ソーセージメーカーとの提携事業をゼロから担当することになりました。これは、小岩井ブランドのOEM商品をドイツの工場で製造する事業です。商品開発や輸入業務の実務は、全くの未経験から勉強しつつ進めました。
大学時代にアメリカでの酪農実習経験があったため、英語はできるだろうと任されたのですが、決して堪能ではありません。初歩的な英語で必死にビジネスと向き合っていました。提携事業と並行して営業を6〜7年経験し、2000年からは社内に存在しなかった商品企画やマーケティングの体制づくりを担当しました。私のチャレンジ精神を評価してもらえたのかもしれません。その後、20年以上にわたって経営企画室長を務め、会社の全体像を把握してきました。そうした多様な経験が、現在の経営の礎になっていると感じています
伝統を未来へつなぐ 第一次産業から六次産業への挑戦
ーー貴社の事業内容について、改めてご紹介いただけますか。
辰巳俊之:
弊社の事業は、酪農、森林、環境緑化、観光、食品という5つの部門から成り立っています。中でも、酪農事業と森林事業は弊社の根幹をなすものです。
1899年に、農場主であった共同創始者の井上勝から経営を引き継いだ、当時、三菱の3代目社長だった岩崎久彌氏がこの2つの事業を経営の基軸に据えて以来、130年近く守り続けてきた中核事業であり、第一次産業であるこの2つを私たちはこれからも大切に守り抜きます。
ーー130年以上の歴史を持つ農場として、事業以外にも大切にされていることはありますか。
辰巳俊之:
小岩井農場には、明治後期から昭和初期に建てられた牛舎や倉庫、サイロなど21棟の建造物が現存しています。これらは日本の農業近代化を物語る貴重な財産として、2017年に国の重要文化財に指定されました。日本で農業関連の建造物が重要文化財に指定されているのは、北海道大学と弊社の2箇所のみです。
最大の特徴は、それらの文化財が博物館の展示物としてではなく、現役で稼働している点にあります。稼働させながら、地震などから建物を守り、そこで働く従業員の命も守るための耐震対策を進めています。私は社長であると同時に、これらの文化財を保護・普及する公益財団法人の代表理事も務めています。この貴重な遺産を後世に伝えていくことに、大きな責任を感じています。
ーー今後、会社を成長させるためにどのような戦略をお考えですか。
辰巳俊之:
酪農や林業といった第一次産業は土地に根差しているため急拡大は難しいですが、食品事業や観光事業といった分野にはまだ大きな伸びしろがあると考えています。文化財を活用したコンテンツ開発もその一つです。現在、JR東日本と連携し、農場内に高級ホテルを建設中です。こうした挑戦を通じて、弊社でしかできない6次産業化を推進していきたいと考えています。
「ありたい姿」を共有し、人材育成で未来を拓く

ーー今後の展望を実現していく上で、経営者として大切にされていることは何ですか。
辰巳俊之:
現状維持に甘んじることなく、常に挑戦し続ける開拓者精神です。そして、まず「こうありたい」という理想の姿を従業員みんなが同じ方向に向けて思い描き、一致団結できる会社にしていきたいと考えています。そのために、人材の育成が不可欠です。
具体的には、3年前に復活させた中期経営計画を、経営改善計画というよりは「人材育成計画」と位置づけています。これまで部門間の交流が十分ではなかったため、まずは集合研修や横断研修という形でお互いを知ることから始めて3年目になります。スキルやノウハウ以上に、前向きで明るい人材こそが企業の財産ですから。
ーー最後に、この記事を通して最も伝えたいことをお聞かせください。
辰巳俊之:
私たちは「小岩井」という素晴らしいブランドをお預かりしている立場であり、その価値をさらに高めていく責任があります。老舗の和菓子屋である「虎屋」の17代目当主、黒川光博氏が話した言葉で、「伝統は革新の連続である」というものがあります。その言葉の通り、歴史や伝統にあぐらをかくことなく、停滞せずに進み続けなければなりません。停滞は後退の始まりです。その思いを胸に、これからも挑戦を続けていきます。
編集後記
「牛と共に生き、苦労を共にしたい」。その純粋な思いから辰巳氏のキャリアは始まった。酪農の現場から始まり、海外企業との交渉、商品企画、そして経営の中枢まで、あらゆる立場から小岩井農牧を見つめてきたその視線は、どこまでも温かく、そして鋭い。伝統という礎の上に「ありたい姿」を描き、革新への挑戦を続ける姿は、まさにフロンティアスピリットの体現者である。130年以上の歴史を背負いながら、未来へと着実に歩を進める同社の挑戦から、今後も目が離せない。

辰巳俊之/横浜市出身。1981年日本大学農獣医学部卒業。同年4月に小岩井農牧株式会社に入社し、葛巻町畜産開発公社出向、酪農事業、食品輸入業務、営業を経て、2000年に経営企画に異動。商品企画、新規事業開発や他社との連携事業の推進などを担う。2008年に取締役経営開発室長、2015年に常務取締役し、2021年に代表取締役社長就任。公益財団法人小岩井農場財団代表理事を兼務する。