※本ページ内の情報は2025年11月時点のものです。

神奈川県鶴巻温泉に佇む、大正創業の老舗旅館「陣屋」。1万坪の広大な敷地にわずか16室という贅沢な空間で、将棋のタイトル戦をはじめ数多くの賓客をもてなしてきた。しかしその裏で、かつては倒産の危機に瀕していた。この窮地を救ったのが、徹底したDXによる経営改革である。自社で開発したクラウドシステム「陣屋コネクト」を武器に、いかにしてV字回復を成し遂げたのか。同社を率いる代表取締役 女将の宮﨑知子氏に、その軌跡と観光業の未来について話を聞いた。

倒産の危機からの脱却 DX革命の幕開け

ーー「陣屋」を継がれることになった経緯をお聞かせください。

宮﨑知子:
2人目の子どもの出産で入院していた時期に、主人が会社を辞めて家業を継ぐと決めたのがきっかけです。義父はすでに他界しており、旅館を切り盛りしていた義母も体を壊して入退院を繰り返すなど、経営を続けるのが困難な状況でした。

20年来の負債も抱え、会社はまさに土俵際でした。義母は売却も視野に入れていましたが、体力的にも思うように動けずにいたのです。そこで、長男である主人に「手伝ってほしい」と頼んだのが始まりで、一緒に継承することを決意しました。

ーーどのようにして経営課題を乗り越え、黒字化を達成したのでしょうか。

宮﨑知子:
最初に直面した課題は、深刻な業務の非効率性でした。顧客管理やバックオフィス業務が、手書きなどのアナログな手法で行われていたのです。結果として、120人以上いた従業員の中に業務のない空き時間(アイドルタイム)が生まれていました。この状況を根本から変えるには、人員整理だけでなく、業務の仕組みそのものをデジタル化する必要があると考えました。

しかし、いざシステムを探してみると、当時は合うものが見つからなかったのです。一般的なホテルとは異なる「一泊二食付き」という、旅館特有のビジネスモデルに対応したシステムがありませんでした。そこで「無いなら、自分たちでつくろう」と決意し、自社開発のクラウドシステム「陣屋コネクト」が誕生しました。

もちろん、長年の習慣を変えることへの反発はありました。しかし、私たちの目的は従業員に意地悪をすることではありません。非効率なバックオフィス業務から解放し、より付加価値の高い「お客様と向き合う時間」に集中してもらうことでした。「事務所の机を全て撤去する」という荒療治も、旧来のやり方へ後戻りさせないという私たちの覚悟の表れです。

こうした徹底したIT化が実を結び、売上向上とコスト削減の両面から経営は改善。倒産寸前の危機的状況から約2年半で黒字化を達成しました。

「見守る」おもてなしの神髄 ITが支える極上の顧客体験

ーー「陣屋」の概要と「陣屋コネクト」の特徴について教えていただけますか。

宮﨑知子:
「陣屋」は創業100年を超える旅館で、宿泊だけでなく、お食事やウェディングなど都市型ホテルのような多様なサービスを提供しています。

「陣屋コネクト」は、経営改革の過程で生まれた旅館・ホテル向けクラウドシステムです。具体的には、予約管理や顧客管理、会計、労務管理まで、旅館運営に必要な情報を一元管理できるのが特徴です。これらの情報をリアルタイムで共有できます。既存のシステムでは、「一泊二食付き」が基本の旅館の原価計算に対応していませんでした。そのため、自社で開発するしかありませんでした。

今ではその仕組みを、全国の同業者の方々にも安価で提供しています。業界全体の生産性向上に貢献したいという思いからです。

ーー貴社が大切にするおもてなしと、それを支えるITの役割についてお聞かせください。

宮﨑知子:
お食事や接客、庭園のある立地など、さまざまありますが、私たちが最も大切にしているのは、お客様が「骨休め」に集中できる時間と空間を提供することです。日々全力で働くお客様のために、過剰なサービスではなく、お客様を付かず離れずの距離で「見守る」。その姿勢をご評価いただけているのかもしれません。

このおもてなしを実現するために、ITを顧客管理の徹底に活用しています。お客様がどのような方で、何を求めているのか。そうした情報をITで瞬時に共有することで、経験の浅い従業員でも質の高い接客が可能になります。目指すのは、バックヤード業務を効率化して、お客様としっかり向き合う時間を創出すること。IT化はあくまでそのための手段です。

コロナ禍を乗り越えた従業員との強固な一体感

ーー従業員の成長のために、どのようなことを大切にされていますか。

宮﨑知子:
会社の肩書きがない状態で、自分そのものが商品になる。それが旅館で働くことの難しさであり、面白さだと考えています。お客様のお迎えからお見送りまで、常にマニュアル通りにはいかない状況で、自分で考えて対応し、喜んでいただくことです。その一つひとつが挑戦であり、乗り越えた時には「毎日山頂に登っている」ような、大きなやりがいを感じられます。どんな経験も決して無駄にはならず、自身の成長に繋がっていきます。

この成長を支えるために、弊社では「クレド」(企業の信条や行動指針を簡潔に記したもの)の浸透を重視しています。また、旅館業界では画期的だった週休2日制を2014年から導入し、2020年から週休3日を実現しました。さらに、理念を共有する研修の時間を確実に確保することで、サービスの質を高めています。

ーーこれまでの困難をどう乗り越えられましたか。

宮﨑知子:
2020年、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による緊急事態宣言が発出された頃は特に大変でした。休業が長引く中で従業員の士気が下がっていくのを感じ、「皆で顔を合わせる方が良い」と4週間で営業を再開しました。従業員を4チームに分ける独自のシフトを組み、仮に1チームが出勤停止になっても他のチームで運営を継続できる体制を整えたのです。出前を始めるなど、皆でできることを探しながら働くことで、結果として心身の健康を保てたと感じています。

観光宿泊業界の発展を目指す共存共栄の仕組み

ーー今後のビジョンについてお聞かせください。

宮﨑知子:
「陣屋」が目指すのは、3世代にわたってご利用いただけるような、より幅広いお客様に愛される旅館になることです。そのためにも、常に新しいことへ挑戦し続けることが欠かせません。たとえば、施設のリニューアルオープンや、美食家として知られる北大路魯山人の器を実際に使ったお料理の提供を開始しました。これは、従業員の探求心を育む挑戦でもあります。

ーー最後に、観光宿泊業界全体をどのように盛り上げていきたいとお考えですか。

宮﨑知子:
私は、ホテル・宿泊業界で働く同業の皆様を「仲間」だと思っています。だからこそ、現状を、共に乗り越えたいのです。一部の有名観光地にお客様が集中し、まだ光が当たっていない魅力的な宿が数多くあります。それが現状です。画一的なサービスだけでなく、個性豊かな宿がきちんと存続していけるような仕組みづくりに貢献したいと考えています。

観光宿泊業は、日本の未来を支える可能性に満ちた業界です。その魅力を多くの人に伝え、業界全体で発展していけるよう、これからも挑戦を続けていきます。

編集後記

倒産の危機からのV字回復。その軌跡は、単なる経営再建の物語にとどまらない。宮﨑氏が語るDXの本質は、効率化の先にある「顧客と向き合う時間の創出」と「従業員の成長」にあった。自らの手で生み出したシステムを武器に、旧態依然とした業界の常識を次々と打ち破っていく。その姿は、まさに革命的である。しかしその根底にあるのは、「お客様に骨休めをしていただきたい」という、おもてなしの原点ともいえる純粋な思いだ。観光業界の未来を切り拓こうとするその挑戦に大いに期待したい。

宮﨑知子/2009年に鶴巻温泉元湯陣屋の女将に就任。夫と共に経営立て直しを図る。業務改善のため、クラウド型ホテルシステム「陣屋コネクト」を独自開発。ICTを活用したデータ分析とおもてなし向上を実現。日々進化する「陣屋コネクト」は全国の旅館・ホテル・観光施設が導入を進めている。