※本ページ内の情報は2025年12月時点のものです。

「ワンカルビ」や「きんのぶた」をはじめとする焼肉・しゃぶしゃぶの外食事業の国内外展開と「ダイリキ」での精肉小売業を展開する、株式会社1&D。同社は「価値ある経営」という経営理念のもと、BSE問題やコロナ禍といった幾多の危機を、強みの徹底によって乗り越えてきた。その成長の根幹を支えているのが、社員の7割がアルバイト出身者という独自の採用・育成文化である。三井物産から義父が経営する同社へ転身し、数々の変革を率いてきた代表取締役社長、髙橋 淳氏に、危機を乗り越える経営術と「未来から選ばれる」ための戦略について話を聞いた。

三井物産から義父の会社へ 覚悟を決めた転身

ーーこれまでのご経歴について、お話しいただけますでしょうか。

髙橋淳:
大学卒業後、三井物産株式会社に入社し、繊維に関わる仕事をしていました。アパレルメーカーが必要とする商品の生産・供給や、テーマパーク向けの企画提案、通販会社への商品企画などが担当でした。

商社勤務時代は、状況やお客様によってチーム構成を考え、仕事を進めていく、一人ひとりがプロデューサーのような働き方でした。そのため、誰かに言われて動くのではなく、能動的に自分で仕事をつくり出すことが求められたのです。また、日頃からの人とのネットワークが財産になるということを学びました。

さらに、商社という立場上、景気が良い時と悪い時で、お客様に求められる役割が全く変わってきます。時代の変化とともに仕事のありようは変わらざるを得ないし、変えていかなければならないことを痛感しました。

ーーいずれは経営の道に進みたいというお考えだったのですか。

髙橋淳:
商社の仕事は本当に楽しく、やりがいを感じていたので、辞めるつもりは全くありませんでした。関西に転勤して妻と出会い結婚したのですが、妻の父がダイリキ株式会社の社長を務めていたことが、転身のきっかけとなりました。

当時のダイリキは食肉小売がメイン事業で、外食事業は都心型の焼肉レストラン「あぶりや」が2店舗できたばかりでした。義父から「これから外食をもう一つの柱に育てていきたい。そのために商社で培った仕事のやり方や人脈を生かしてほしい」と、熱心に誘われたのです。妻の実家に行くたびに、義父から「会社はいつ辞めるんだ」と口説かれました。

話を聞くうちに、経営というものの醍醐味や面白さにも触れ、最終的には1995年10月からダイリキに転職することを決意しました。

ーー入社当時のことを教えていただけますか。

髙橋淳:
入社前日に挨拶へ行ったところ、いきなり「今までの仕事のやり方、人脈、すべて捨てろ」と言われました。あれだけ「商社での経験を生かせ」と口説いておきながら、どういうことだろうと衝撃を受けました。

しかし、後になってその意味が分かりました。当時の物産での仕事は事業プロデューサーの集合体で、チーム会議も年に4回しかありませんでした。それぞれが違う仕事をしているので、情報を共有する必要があまりなかったのです。

一方で、ダイリキの仕事は、一つの店舗、一つの商品をつくるために、みんなでアイデアを出し合い、徹底的に共有しながら進めないと成り立ちません。仕事のやり方が全く違ったのです。社長は、経営者の勘として「商社のやり方でやられたら、会社がガタガタになる」と瞬時に判断したのだと思います。

ーー入社当時は、会社はどのような状態でしたか。

髙橋淳:
外食事業を本格化させていく、変革のタイミングでした。入社直後、小売店舗での勤務を希望したのですが、「素人が入ってきても邪魔になる」と断られました。結局、法人向け業務である「外食店舗開発」の仕事を担当しました。デベロッパー様・ビルオーナー様との交渉が主な仕事でした。ここなら商社時代の交渉力が活かせるという意図があったのだと考えています。

入社直後の変革期 「あぶりや」を軌道に乗せた店舗開発

ーー外食事業「あぶりや」は当時から好調だったのですか。

髙橋淳:
1号店は「居酒屋感覚の焼肉店」というコンセプトで、客単価2,500円という価格破壊で大ヒットしていました。当時は焼肉といえば客単価は6,000円〜7,000円が当たり前で、学生や家族連れが気軽に行けるものではなかった時代です。肉屋の強みを生かして安く美味しい肉を提供することで、何時間も行列ができるほどの人気でした。

ーー店舗開発でのご苦労と、事業拡大の転機についてお聞かせください。

髙橋淳:
都心部への出店は、「焼肉屋」というだけで敬遠されたうえ、無煙ロースター設置に必要な電気・ガス容量やダクトスペースといった物理的なハードルも高く、極めて困難でした。そこで目をつけたのが郊外店です。リサーチを重ね、都心でヒットした低価格モデルは郊外の家族連れにも響くと確信し、出店したところ次々とヒットしました。そこから一気に拡大を進める流れにつながります。

BSE問題という最大の危機。変革期に下した決断

ーー順調に拡大を進められる中で、何か大きな転機となった出来事はありましたか。

髙橋淳:
会社としても、私自身にとっても、本当の変革期となったのがBSE(狂牛病)問題の発生です。業界全体が大打撃を受けるほど、本当に大きな出来事でした。特に2003年にアメリカ産牛肉が輸入できなくなってからは、深刻な状況に陥ったのです。

ーーその危機的状況から、どのように経営を立て直したのでしょうか。

髙橋淳:
2つの大きな決断をしました。一つは、スピード出店のために諦めていた「店内での手切り」の復活です。BSE問題で、自分たちの強みを生かさずアウトソーシングに頼り、価格だけで勝負していたことで生まれた弱点に気づかされました。技術の育成は時間もコストもかかる非効率な経営ですが、これこそが「独自価値」になると確信しました。

もう一つは「食べ放題」への挑戦です。これは飲食業界では「最後の切り札」とも言われていて、これで失敗したら外食から撤退する覚悟でした。「食べ放題」を展開している焼肉店は他にもありました。そこで、私たちが選んだのは、お客様が席を立たずに注文できる「テーブルオーダーバイキング」というスタイルです。

一般的なビュッフェスタイルは、食事を取りに行くために大切な人とのコミュニケーションが途切れてしまう。そうではなく、席に座ったまま食事の時間を楽しんでいただきたかったのです。ただし、これを実現するには、接客サービスのレベルを徹底的に高める必要があります。これもまた、教育に時間とコストがかかる非効率な経営です。

「店内での手切り」、「テーブルオーダーバイキング」という2つの非効率を徹底的に磨き上げ、独自価値としていく。2006年にスタートしたこの決断によって、BSEの危機を打開し、むしろそこから急成長を遂げることができました。結果として、2019年3月期までの13年間で、既存店の売上は1.8倍になり、全店黒字を達成。それから、コロナ禍になるまで赤字による閉店は一店舗もありませんでした。

コロナ禍の試練と「価値ある経営」の追求

ーー2020年のコロナ禍ではどのような影響があり、どう乗り越えられたのでしょうか。

髙橋淳:
2020年4月の緊急事態宣言が出された際、お客様だけでなく従業員の安全も考え、全店休業を決断しました。全120数店舗をクローズし、2カ月で10億円の赤字が出ました。この危機的状況から回復できたのは、BSEの時に学んだ「危機的な状況であるほど、自分たちの強みを徹底的に磨き上げる」という教訓が生きたからです。

テイクアウトなどもスピード感を持って進めましたが、回復の根本は「肉」という分野での強みを徹底したこと。逆風の時こそ、強みを生かすことが生き残る術だと学んでいます。

ーー貴社の経営理念と、それを支える人材についてお聞かせください。

髙橋淳:
経営理念である「価値ある経営」とは「必要とされる存在になる」ことです。この経営理念を根幹で支えるのが、まさしく人材であり、採用と育成が極めて重要だと考えます。お客様、社会、仲間から必要とされるため、規模よりも価値を追求し、肉分野の職人集団として料理や接客の「独自価値」を磨き続けることが不可欠な要素です。

その価値ある経営を実現する根本が「採用」と「育成」なのです。弊社は2008年からインナー採用を積極的に進めており、社員はアルバイトから、アルバイトは紹介から採用する仕組みを構築しました。働きがいなどエンゲージメントを高める努力を続けた結果、今では社員の7割がアルバイト出身、アルバイト採用の半分が紹介で成り立っており、これが弊社の強みの一つになっています。

「未来から選ばれる企業へ」ビジョンが示す3つの道

ーー貴社のビジョンについて教えてください。

髙橋淳:
創業60周年を機に新たなビジョンとして「未来から選ばれる企業へ。」を掲げました。これから時代はますます混沌とし、価値観も多様化していきます。その中で「価値ある経営(必要とされる存在)」であり続けるためには、未来から選ばれなければならない、という考え方にたどり着いたのです。

この「未来」には、「未来のお客様」「未来の仲間」「未来社会」という三つの意味が込められています。既存の顧客層や従業員、社会だけでなく、まだ出会っていない未来のステークホルダーからも必要とされ続けることが重要だと考えています。そのために、新業態や海外展開による顧客の拡大、そして社員登用を中心とした人材の育成といった具体的な戦略を進めています。

ーー新業態への取り組みについてご説明いただけますか。

髙橋淳:
これまでの大規模な郊外の食べ放題モデルは、物価や建築費、家賃の高騰を考えると、今までと同じようにはいきません。そこで、都心部で小規模ながら客単価を上げる戦略として、黒毛和牛焼肉を提供する「ABURIYA arata」や和食の真髄を伝える「和牛懐石 わ美」など、新業態での出店にも挑戦しています。

ーー海外展開による顧客の拡大についてもおうかがいできますか。

髙橋淳:
海外では、2025年8月にホーチミン(ベトナム)に海外1号店となる「ABURIYA グェンディンチェウ店」をオープンしました。ベトナム進出は、「未来のお客様」開拓と「未来の仲間」づくりが深く連携しています。私たちは2009年から海外への学校建設支援をはじめており、ベトナムでも支援を行っております。その繋がりから現在、国内店舗では約300名のベトナム人留学生が在籍しています。

アルバイトからの社員登用で正社員になったベトナム人社員も25名おり、彼らがベトナム語で後輩の教育を担っています。彼らの多くは「将来ベトナムでマネージャーになりたい」という目標を持って入社しており、今回のホーチミン店にも国内から社員を転勤させ、現地スタッフの教育を任せています。この明確なキャリアパスが彼らのモチベーションを高め、現地でも高い評価を得ることにつながっています。

新たな地域としては、国内では九州エリア、特に熊本に注力しています。3年前に、世界最大の半導体受託製造会社、TSMCが熊本に進出するというニュースを見て、「これから熊本が来る」と考えました。まずは2024年に菊陽町に1号店を出店しました。これは初日の売上記録を更新する大ヒットとなり、そこから立て続けに3店舗体制に拡充しています。

日本の「おもてなし」を世界へ「DANRAN」が創る未来

ーー最後に、これからの時代を担う読者へメッセージをお願いします。

髙橋淳:
弊社の経営理念「価値ある経営」と、それを実現するための考え方『「基本の徹底」と「変化への対応」』は、不変の原理です。これから世の中がどう変化しようとも、この二つを徹底し続ければ、どんな時代、どんな地域でも必ず存在意義は生まれると確信しています。これは会社や店だけでなく、人も同じです。

食べ放題のコンセプトを「人生に2時間の幸せを」とし、社会に「団らん」をもたらすことを大切にしてきました。このコンセプトが持つ日本の精神性を、グローバルな環境で言語や文化の壁を越えて広げていくために、表記を漢字の「団らん」からローマ字の「DANRAN」へと変えています。日本に来てくださるお客様、共に働く仲間、そして海外へと、時を超え、壁を越えて、世界に「DANRAN」を広げていきたいと考えています。

かつて日本が世界に誇ったのは重工業でしたが、これから世界に誇れるのは、私たちが持つ「技術」や「おもてなしの精神」です。世界が求めているこの価値を、若い皆さんと共に、世界へ発信していきたいと思っています。

編集後記

三井物産という安定したキャリアから、義父が経営する会社への転身。「今までのやり方を捨てろ」という言葉から始まった髙橋氏の新たな人生は、BSE問題、コロナ禍という幾多の危機の連続であった。しかし、その度に同社が選んだのは、目先の効率ではなく肉のプロとして「店内手切り」「テーブルオーダーバイキング」といったあえて非効率な「独自価値」の追求である。危機に直面した時こそ強みを磨き上げる、というそのブレない信念が、社員の7割をアルバイト出身者が占めるという強固な組織文化を育み、「DANRAN」という新たな価値を世界に届ける原動力となっている。

髙橋淳/1961年生まれ。成蹊大学卒業後、三井物産株式会社に入社。1995年ダイリキ株式会社に入社。2008年外食事業を分社化し、株式会社ワン・ダイニングの社長に就任。2016年より1&Dホールディングス体制がスタートし、株式会社ワン・ダイニング、ダイリキ株式会社の社長を兼務。2025年、吸収合併により社名を株式会社1&Dへ変更し、代表取締役社長に就任。2025年の60周年以降の未来に向けて「未来から選ばれる企業へ。」をビジョンに掲げ、様々な挑戦に取り組んでいる。