
1862年創業、日本酒に加え、1952年からウイスキー製造も手がけてきた若鶴酒造株式会社。一時は売上1割未満だったウイスキー事業を、同社代表取締役社長兼CEOの稲垣貴彦氏が立て直した。大学時代から酒造りを学び、他業種での経験を経て29歳で入社。シングルモルト「三郎丸」ブランドの確立や、地元の伝統技術を生かした世界初の鋳造製蒸留器「ZEMON(ゼモン)」の開発を主導し、国内外で評価を高めている。地域に根ざし世界を目指す、その軌跡と展望についてうかがった。
幼少期から身近だった家業のルーツ
ーー幼い頃、稲垣社長の目には「酒造り」という家業はどのように映っていましたか。
稲垣貴彦:
稲垣家では、大学生になると冬休みに蔵に入って酒造りの工程や日本酒について学ぶ慣習がありました。そこで日本酒やウイスキーのことを知りました。特に、毎年、杜氏がその年のお酒の出来栄えを説明してくれるため、私自身、幼少の頃からその雰囲気に親しんでおり、お酒は非常に身近な存在でした。
ーー大学卒業後はどのようなキャリアを歩まれましたか。
稲垣貴彦:
大学卒業後は、あえて家業とは全く異なる分野である東京の外資系IT企業に就職しました。曽祖父は北陸コカ・コーラボトリング株式会社を創設しており、スケールの大きなモノを扱う商売に携わっていましたが、急速に世の中の形を作り変えていたIT分野で自身の見聞を広めたいと考えたためです。そこでは4年弱、社会の根幹を支えるITシステムの契約を扱う営業を担当していました。
グループ再編時の事業承継とブランド再構築に向けた確信

ーーどのような経緯で若鶴酒造に戻られたのですか。
稲垣貴彦:
29歳のとき、グループ再編のタイミングで戻りました。当初は北陸コカ・コーラの経営企画として再編に携わりました。そこで祖業である若鶴酒造に携わることになりました。この時の若鶴酒造は当時、万年赤字でした。かつて1万8000石(1升瓶で180万本)つくっていた日本酒も10分の1以下に落ち込んでいる状態でした。
ーーウイスキー事業はどのような状況だったのでしょうか。
稲垣貴彦:
戻った当時、ウイスキーの売上は全体の1割を切る程度でした。しかし折しも、NHK連続テレビ小説「マッサン」の影響で日本のウイスキーが話題になり始めたころでもあります。そんな中、大学時代に蔵がボロボロで見学できなかったことを思い出したのです。さらに調べてみると、1960年に曽祖父が蒸留したウイスキーが残っていることが分かりました。その55年ものの奥深い味わいに感銘を受け、「半世紀の時を超える、このウイスキー事業を手がけたい」と強く考えました。
ーーどのようにしてウイスキー事業を再建していったのですか。
稲垣貴彦:
まず、1960年に曽祖父が蒸留した55年もののウイスキーを「三郎丸1960」として1本55万円で商品化しました。私は商品の価値を確信していましたが、社内の反応はこんな古いものに価値があるのかと懐疑的でした。しかし、発売してみると募集枠の4倍もの応募があり、結果完売しました。
また、本来は蒸留所の個性を売りにすべきシングルモルトを、マス向けのブレンデッドウイスキーと同じブランド名で販売しており、価値や個性が伝わりにくくなっていました。このため、蒸留所の地名を冠したシングルモルト「三郎丸」を立ち上げました。
ーー次なる一手としてどのようなことに取り組まれましたか。
稲垣貴彦:
「三郎丸1960」の売上とクラウドファンディングで支援を受けた3800万円超の資金を活用し、ボロボロだった蒸留所を改修しました。ウイスキー造りがおこなわれていることを地元の人にも知られていなかったため、スコットランドのように見学できる蒸留所にしようと考えました。2017年にオープンし、今では年間4万人以上の方が訪れます。

生産能力の課題解消に向けた高岡銅器との共同開発
ーー蒸留所改修以外にも取り組まれたことはありますか。
稲垣貴彦:
当時、ウイスキーは2回蒸留する必要があるにもかかわらず、蒸留器が1基しかなかったため、生産能力が低いことが課題でした。しかも、本来は銅製であるべきところがステンレス製を使用しており、品質的な課題もありました。
新しい蒸留器がほしいと思っても、当時はウイスキーブームで、板金で造る従来の蒸留器は3年待ちの状態。ウイスキーの熟成には最低でも3年かかるのに、そこからさらに3年待つのは長すぎます。そこで、他の策はないかと検討しました。富山県、特に高岡市は日本の銅器の9割を生産する「高岡銅器」の産地であり、鋳造の技術で蒸留器をつくれないかと考えたのです。
そこで、梵鐘のトップシェアである老子製作所や富山県と交渉し、地元の伝統技術を生かした世界初の鋳造製蒸留器「ZEMON(ゼモン)」の開発をスタートさせました。
鋳造は砂の型を使うため納期が短く、分厚くつくれるため長寿命です。また、銅と錫の合金は熱を通しにくく、熱を逃がさない性質があるため、蒸留効率が88%アップし、エネルギー消費とCO2排出量は半分になりました。この技術は日本と英国でも特許が認められています。

「地域に拠って、世界に立つ」100周年に向けた未来
ーー若鶴酒造三郎丸蒸留所のウイスキーは、どのような特徴がありますか。
稲垣貴彦:
弊社は創業以来、ピート(泥炭)を使って乾燥させた麦芽でウイスキーをつくってきました。「ピーテッド」と呼ばれる、スモーキーなタイプです。日本のウイスキーはピートを使わないものが主流ですが、私たちは「The Ultimate Peat(ピートを極める)」ことをコンセプトに掲げています。
ーー日本のウイスキー産業の現状をどう見ていますか。
稲垣貴彦:
この10年で蒸留所は10倍の約100カ所になりました。しかし、輸出額はスコットランドのウイスキー産業の20分の1です。スコットランドは、モルト工場や樽工場などをシェアする文化があり、産業全体で支え合っています。一方、日本はまだ各社が個別に対応している状態です。
そこで、スコットランドにあって日本にない「ボトラーズ(瓶詰め業者)」が必要だと考えました。ウイスキー事業は最低3年熟成させる必要があり、キャッシュフローが最大のネックです。「ボトラーズ」が蒸留所からニューポットと呼ばれる熟成前のウイスキー(原酒)を購入し、自社で熟成・販売します。「ボトラーズ」が原酒を買うことで、蒸留所はすぐに現金化できるのです。今増えているクラフト蒸留所が花開くためにも、この仕組みが必要だと考えました。
ーー貴社のミッションについて教えてください。
稲垣貴彦:
弊社のミッションは「地域に拠って、世界に立つ」です。「ZEMON」のように富山のものづくり技術を活用したり、地元のミズナラ(※1)を使った樽づくりを行ったり、地域に根ざしながら世界で存在感を発揮していこうとしています。
(※1)ミズナラ:日本各地の山地に分布するブナ科の落葉高木。
ーー100周年を見据え、今後の目標やビジョンをうかがえますか。
稲垣貴彦:
「酒造り」は未来を長く見据える事業だからこそ、環境負荷をかけないことが重要だと考えています。再生カレット(※2)90%の瓶の使用や、本社のZEB化(※3)を進めているほか、樽材となるミズナラを守るための植林活動も20年続けています。
また、この会社があるからこそ町が発展する、そんな地域のハブになることも目指しています。その一環として、2025年12月からは、樽から直接ウイスキーを手詰めできる「ハンドフィル」という体験型の施設もオープンします。
数字的な目標としては、10年後に年商100億円を宣言しています。ただ、ウイスキー事業はロングスパンのビジネスです。2052年のウイスキー製造100周年を目指しており、その時にちょうど私が仕込んだ30年ものができあがります。それをみんなで飲んで65歳で引退するのが夢です。誰も信じていないですが(笑)
(※2)再生カレット:回収されたガラスびんを細かく砕いたもの。
(※3)ZEB化:建物で使われるエネルギーを効率化し、再生可能エネルギーを導入することで、年間の一次エネルギー消費量を実質ゼロにすることを目指す取り組み。
編集後記
稲垣氏の視線は、自社の立て直しだけに留まらない。高岡銅器の技術で「ZEMON」を生み出し、ボトラーズ事業で業界全体の課題解決に挑む。その根底には、日本のウイスキー産業を育てたいという強い思いがある。「地域に拠って、世界に立つ」というミッションは、地域と業界の未来を同時に見据えるものだ。2052年の100周年に向け、富山から発信される新たな物語に期待が膨らむ。

稲垣貴彦/1987年生まれ、富山県出身。大学卒業後、外資系IT企業に勤務。2015年、実家の若鶴酒造株式会社に戻り、ウイスキー造りを継承。2017年、クラウドファンディングで三郎丸蒸留所を改修し再興。2019年、地元の高岡銅器を活用した鋳造製ポットスチル「ZEMON」を発明し、日本と英国で特許を取得。経済産業大臣賞など受賞。2022年、世界初ジャパニーズウイスキーボトラーズ「T&T TOYAMA」設立。
主な著書は「ジャパニーズウイスキー入門 現場から見た熱狂の舞台裏」(角川新書)など。