
オフィスでおなじみのビジネススタンパーやネーム印で知られるシヤチハタ株式会社。その核心は、単なるハンコづくりではなく「しるし」を付ける技術そのものにある。この強みを武器に、法人向けから個人向け、さらには工業分野やデジタルサービスへと事業を多角化させてきた。広告代理店での勤務を経て、2006年、リーマン・ショック直前のタイミングで代表取締役社長に就任した舟橋正剛氏。未曾有の危機をいかに乗り越え、事業変革を推し進めてきたのか。2025年に創業100年を迎え、「第二の創業期」を掲げる同社の未来像と、それを支える人材育成の考えに迫る。
広告代理店を経て家業へ 父の言葉を胸に改革の第一歩を踏み出す
ーー幼少期、家業をどのように捉えていらっしゃいましたか。
舟橋正剛:
父から「会社を継ぐんだぞ」と言われたことは一度もありませんでした。子どもの頃からあれこれ指図されたり、厳しく怒られたりすることはありませんでした。中学生の頃には父から「一人の人格のある人間として見ている。だから自分のことは自分で決めなさい。」と言われたことがあり、それが今も強く心に残っています。高校、大学、留学とすべて自由にさせてもらいましたが、私自身、将来的にシヤチハタへ入ることは当然のことと捉えていました。
ーー社会人として最初のキャリアについてお聞かせください。
舟橋正剛:
大学卒業後、大手広告代理店に就職しました。主に大手電機メーカーのプロモーションを担当し、新商品のテレビCMや販促企画など、どうすれば商品がユーザーに響くのかを徹底的に考える仕事でした。この時の経験が、現在のマーケティング的な思考の根本になっていると感じています。
ーー広告代理店での経験で、最も大きな学びは何でしたか。
舟橋正剛:
大学院や留学先で得た理論的な知識以上に、当時の上司から「人をいかに伸ばし、生かすか」というマネジメント論を学べたことが大きな財産となりました。当時は深夜まで働くことも多く、仕事は非常に厳しいものでしたが、上司の指導にはいつも愛情がありました。たとえば、難度の高いプレゼンが成功した際、実は上司が事前にクライアントの責任者と話をつけ、私が企画を通しやすいように土壌を整えてくれていたと後で知ったこともあります。表舞台ではメンバーに全力で挑戦をさせ、裏では必ず支える。そうしたメンバーのモチベーションを高める工夫に触れ、人を動かすことの奥深さを学びました。
ーー入社の経緯と、入社後にまず取り組まれたことについてお聞かせください。
舟橋正剛:
当時、業界ではメーカー主導の体制から、流通側が主導権を持つ形へと大きな構造変化が起き始めていました。その変化を察知した父から、「入社する意思があるなら、この変革期を現場で体感しておかなければだめだ。今しかないぞ」と背中を押されたのが直接のきっかけです。
入社後、変革を推進する立場としてまず直面したのは、非常に保守的な社風でした。「品質第一」というこだわりは強いものの、営業、開発、生産の各部門が縦割りで、連携が取れていなかったのです。顧客ニーズの変化に対応できる組織にするため、まずは部門の垣根を越えたプロジェクトを立ち上げ、風通しをよくすることから着手しました。
リーマン・ショックを乗り越え BtoCへの転換で新たな活路を拓く
ーー社長に就任された後、どのような市況だったのでしょうか。
舟橋正剛:
国内営業から海外、生産、開発、経営企画、マーケティングと、多岐にわたる部門を経験した後、2006年に社長に就任しました。しかし、その直後にリーマン・ショックが起こり、就任後すぐに会社として大きな壁に直面することとなりました。それまで赤字を出したことがない会社でしたので、業績が落ち込んだ時は、経営者として正直かなり焦りました。
当時の弊社は、売上の大半を法人向け事業が占めており、景気後退の波をまともに受けてしまいました。この経験を通じて、特定の事業構造に依存する危うさを痛感しました。
ーー具体的にどのような事業転換を図られたのでしょうか。
舟橋正剛:
当時、市場を見渡すと個人向け事業を中心とする企業は不況の影響が比較的少なかったため、法人向け事業一辺倒だった構造を見直し、個人向け事業を本格的に強化する方針を打ち出しました。「自分たちが提供できる価値は何か」を改めて問い直し、当時働く女性に向けた商品企画や、個人が文具を自ら選ぶという時代の変化に対応した製品づくりに注力したのです。その結果、ユーザーに選ばれるためのデザイン性や機能性が磨かれ、商品ラインナップの多角化へとつながっていきました。
素材開発からの一貫体制が支える圧倒的な品質とブランド力

ーー現在の貴社の事業構成について教えてください。
舟橋正剛:
現在は、売上全体の約3割を海外事業が占めており、着実にグローバルへのシフトが進んでいます。一方、国内事業の割合は約7割で、オフィスで使われるスタンプ台不要の浸透印「Xスタンパー」や「ネーム9」などの印章関連事業が中心です。
長年、弊社の土台を支えてきたこれらの既存事業に加え、現在はデジタル領域も大きく伸長しています。特に、コロナ禍を機に需要が急増したデジタルサービスは、現在では約15億円規模の事業へと成長しました。既存ビジネスの強みを守りつつ、デジタルへの移行を加速させているのが現在の弊社の姿です。
ーー他社と比較した際の、事業における一番の強みは何ですか。
舟橋正剛:
製品の核となるインキや、インキを均一に染み込ませる素材「ポーラスゴム」を、すべて自社で開発・製造している点です。商品の金型からつくり、素材を最適に組み合わせて製品化までを一貫して手がけられる体制こそが、私たちの圧倒的な品質の源泉となっています。
ーー長年にわたり業界で勝ち残ってこられた理由は何だとお考えですか。
舟橋正剛:
やはり、圧倒的な品質とブランド力に尽きると考えています。100年近く前に企画された商品が、少しずつ進化しながらも今なお多くのお客様に支持され、売れ続けている。その事実こそが、他社との絶対的な差であり、私たちの最大の強みです。
「しるしの価値」を再定義する 新規事業への飽くなき挑戦
ーー現在、特に注力している取り組みについて教えてください。
舟橋正剛:
工業分野に力を入れています。たとえば、工場の油が付着するような特殊な環境でも使えるインキなどのこれまでお客様のご要望に応じて対応してきた特殊インキの知見は400〜500種類にも及びます。この技術を生かし、建築現場や製造ラインなどで使われる工業用途向けの事業として本格的に展開しているところです。
ーーそのような技術力は、他にはどのような形で活かされているのでしょうか。
舟橋正剛:
最近では、トイレの汚れを可視化するスプレーをクラウドファンディングを活用してお客様の反応を確かめました。スプレーをかけると、タンパク質やアンモニアが残っている場所だけが青く発色し、汚れを「見える化」できる仕組みです。これにより、汚れている箇所だけを効率的に掃除することが可能になります。
この製品も「汚れた場所に『しるし』を残す」という、弊社のコア技術から着想を得て生まれました。「すべての人に」ではなく、「これを待っていた」という方に深く刺さる商品づくりを大切にしています。
ーー今後を見据えた、さらに新しい技術開発はありますか。
舟橋正剛:
「音」を使った認証技術の開発に、技術系のベンチャー企業と共に取り組んでいます。動画などの音声に、人間には聞こえない独自の電子透かし情報を埋め込むことで、そのデータが改ざんされていないオリジナルなものか否かを判定する技術です。フェイクニュース対策のほか、将来的にはイベントや商業施設での顧客体験向上など、エンターテインメント分野での活用も視野に入れています。
失敗を恐れず挑戦する人材が未来を創る 「第二の創業期」へ
ーー今後のビジョンと、それを実現するために重視されていることについてお聞かせください。
舟橋正剛:
事業の軸は、「しるし」が持つ価値をさらに磨き上げ、その可能性を新しい分野へ広げていくことにあります。既存ビジネスを守りつつ、個人向け事業やデジタル、新規事業といった「攻め」の分野をしっかり成長させていく方針です。
このビジョンを実現するために何より重視しているのは、挑戦を後押しする「人」の存在です。私は従業員とその家族の幸せを最優先に考えています。その上で、組織が守りに入らず、新しい領域へ挑み続けるためには、従業員一人ひとりが失敗を恐れずに実行できる環境が欠かせません。若手には働く意義を一緒に考える研修を、中堅層にはビジネスプランの立案、全部署対象のジョブチャレンジ制度などを通じ、従業員一人ひとりの挑戦と人間的な成長を全力で支援しています。
ーーこれからの貴社には、どのような人材が必要ですか。
舟橋正剛:
失敗を恐れずに自ら考え、実行できる人です。歴史の長い会社は、どうしても無難に仕事をこなそうという保守的な空気が生まれがちですが、これからの時代は挑戦の繰り返しでしか成長はありません。会社として挑戦による失敗の責任を個人に負わせることはないので、仕事を通じて人間的に成長したいという意欲のある人に来てほしいと考えています。
ーー最後に、読者へのメッセージをお願いします。
舟橋正剛:
おかげさまで、シヤチハタは創業100年という大きな節目を迎えました。この転換期を「第二の創業期」と位置づけ、新しいシヤチハタをつくり上げるという決意で新たなスタートを切っています。今後も人々の生活やさまざまな業界の職場で、なくてはならない当たり前の存在となるような商品・サービスを提供し続けることが、私たちの使命です。時代がどう変わっても「シヤチハタを使って便利でよかった」と言っていただける会社を、これからも目指していきます。
編集後記
舟橋氏の話から見えてきたのは、危機を変化の好機と捉える柔軟な思考だ。リーマン・ショックを個人向け事業への転換点とし、ペーパーレス化の波をデジタル事業成長の追い風に変えてきた。その根底には、社員の幸せを願い、挑戦を後押しする温かな眼差しがある。創業100年を経てなお、「しるし」の可能性を信じ、未知の領域へ挑み続ける同社の「第二の創業期」の飛躍が楽しみだ。

舟橋正剛/1965年愛知県名古屋市生まれ。米リンチバーグ大経営大学院修士課程修了後、広告代理店に入社。主に企業のプロモーションを担当したのち、1997年シヤチハタ株式会社に入社。経営企画やマーケティング部門を経験後、常務、副社長を経て、2006年代表取締役社長に就任。従来のプロダクトの枠にとどまらない商品やデジタル関連サービス、素材ビジネスまで幅広く取り組む。ジャンルにとらわれない「しるしの価値」を追求する。