
明治初期、東京・新橋の牧場から歴史を刻み始めた中沢乳業株式会社。日本で初めて生クリームの製造販売を開始し、長きにわたり日本の洋菓子文化を根底から支え続けてきた老舗企業である。しかし、その輝かしい歴史とは裏腹に、変化を拒む古い体質が、同社を存続の危機へと追い込んでいた。そこからいかにして組織を再生し、売上高275億円規模へとV字回復を果たしたのか。その鍵は、徹底した「現場視点」と、他社の隙間を突く巧妙な「ゲリラ戦」にあった。27歳での入社以来、海外展開や物流改革にも挑む同社代表取締役社長の中澤謙次氏に、改革の全貌と次世代へつなぐ経営哲学を聞いた。
変革を阻む「事なかれ主義」とブランドへの危機感
ーーまずは、中澤社長のこれまでのご経歴をお聞かせください。
中澤謙次:
もともと家業を継ぐつもりなど全くなく、幼少期から野球に明け暮れていました。次男ということもあり、親からの期待もそれほど感じていなかったのです。しかし、高校3年生の時に兄が家を出てしまい、「自分がやるしかないのだろうな」と、半ば運命を受け入れる形で覚悟を決めました。
ただ、大学卒業後すぐに家業に入ったわけではなく、一旦は別の食品会社に就職しました。そこで社会人としてのファーストキャリアを積み、その後27歳の時に中沢乳業に入社しました。
入社後は、まず営業職として恵比寿や品川、大田区といったエリアを担当。当時は街のケーキ屋やレストランといった個人店のお客様が多く、朝早くから夜遅くまで現場を走り回っていましたね。厳しいご意見をいただくこともありましたが、それ以上に皆様が弊社の製品を愛してくださっている温かさに触れ、「いい会社だな」と肌で感じることができました。この時、現場でお客様に鍛えていただいた経験が、私の経営者としての原点になっています。
ーー当時の社内には、どのような課題がありましたか。
中澤謙次:
一言でいえば、典型的な「古い組織」でした。会議を開けば昔話ばかり。また、当時の経営陣は「余計なことをせず本業に徹する」と口にしていましたが、私にはそれが、新しいことをやらないための言い訳のように感じられました。
本来、「本業に徹する」という戦略が成り立つのは、「圧倒的な商品力」「圧倒的な開発力」「圧倒的なコスト競争力」の3つが完璧に揃っている場合だけです。しかし、当時の弊社にはその3つが揃っていませんでした。武器を持たずに「余計なことはしない」と現状維持を決め込むのは、会社を倒産させる道を選ぶのと同じだと感じていました。
その危機的な状況を象徴していたのが、ブランドに対する意識の低さです。ある時、他社の製品に弊社のシールだけを貼って販売するという話が持ち上がったのです。中身が他社と同じ商品に、我々のブランド価値はあるのか。そうした安易な発想がまかり通る社内の空気に、強い危機感を覚えました。
ーーそうした状況に対して、どのように立ち向かっていったのですか。
中澤謙次:
私はその製品の販売に猛反対しました。当時の社長であった父は「うちのブランドがあればお客様は喜ぶだろう」と曖昧な理由を口にしましたが、私は全く納得できませんでした。それはかつて海外の有名ブランドがライセンスを乱発し、一時的に価値を落としたのと同じ行為に思えたからです。過去の延長線上に未来はない。そう確信していた私は、社内からの批判を覚悟の上で、新しい挑戦が必要だと訴え続けました。
そこで具体的に動き出したのが、現在では事業の柱の一つとなっている「チーズ事業」への参入です。周囲からは「うちは生クリーム屋だ」と一蹴されましたが、変革のためには不可欠な挑戦だと信じ、突き進みました。
子会社再建で見えた「現場軽視」の代償と信頼回復

ーーその後はどのようなキャリアを歩まれましたか。
中澤謙次:
36歳の時に、グループ会社であるサンワ乳研株式会社の事業承継を行い、社長に就任しました。当時、同社は売上高20数億円規模でしたが、前任の創業社長は、業界内でも一目置かれる優秀な経営者であり、同時に非常に厳しい人物でもありました。「経営とは自分一人で決断するものだ」という考えで、現場の空気は重くて、人は定着せず、労働法に関するトラブルも抱えていたのです。
そんな中で私が社長になって最初に直面したのは、劣悪な労働環境でした。特に衝撃を受けたのは女性社員の更衣室で、そこは個室ですらなく、ロッカーを壁代わりにして囲いをつくって入り口にカーテンを吊るしただけの粗末なものだったのです。実際に女性社員から「社長、この隙間から中が見えませんか?」と不安げに相談された時は、経営者として間違っていると強く感じました。さらに問題だったのは、来客があるたびに、前日に慌てて掃除をして取り繕うような状態だったことです。「普段は見せられない工場」で、良い製品がつくれるはずがありません。
そこで私は、新工場の建設を決断しました。具体的には、女性社員が安心して働けるよう福利厚生設備を完備。そして、いつお客様が来ても恥ずかしくないよう、「整理・整頓・清掃」を徹底したのです。工場自体を「ショールーム」化し、お客様を積極的に招き入れ、外部の目で評価していただく仕組みをつくりました。
ーー環境を変化させたことによって、業績に変化はありましたか。
中澤謙次:
劇的に変わりました。工場がきれいになったことによって、お客様にも見てもらえるようになり、品質管理への信頼が一気に高まったのです。その結果、もともとあったコスト競争力に加えて「安心・安全」という付加価値がつき、顧客数は増加。売上高・利益ともに約3倍へと伸長しました。
私が後に弊社の社長になれたのは、創業家の一族だからではありません。このサンワ乳研での実績を通じ、「こいつなら任せられる」と親戚や周囲に認めてもらえたことが大きかったと考えています。経営とは、単に役職に就くことではなく、結果を出して責任を全うすることだと、身をもって学びました。
「ESなくしてCSなし」 理念の刷新と4つの柱
ーー貴社の社長就任後は、何から着手されましたか。
中澤謙次:
まず着手したのは、経営理念の刷新と、それを実現するための優先順位の明確化です。特に理念については、以前のトップが安全を最優先するあまり「食を通して社会に貢献する」という項目を外してしまっていたため、私は時間をかけて周囲を説得し、これを復活させて現在の4つの体系を整えました。
その上で、「ES(従業員満足)なくして、CS(顧客満足)なし」という考え方を徹底しました。隣の席の同僚すら大事にできないような殺伐とした職場で、お客様を心から大切にすることなどできません。まず働く環境を整え、社員が誇りを持てる会社にする。それができて初めて、お客様に最高のサービスを提供でき、ひいては社会貢献につながるのです。
ーー事業面では、どのような戦略を進めてこられたのですか。
中澤謙次:
最も重視したのは、「生クリーム一本足打法」からの脱却です。現在は主力である「生クリーム」に加えて、サンワ乳研で培った「チーズ」、「液卵」、さらに「輸入食材」という4つの事業の柱を構築しています。どれか一つが崩れても会社全体が揺らがないよう、幹を太くしてきました。かつては乳製品が売上高の7割以上を占めていましたが、現在は50%程度となり、その他の商材も含めてバランスよく成長しています。この多角化が奏功し、グループ全体の売上高は275億円規模にまで拡大しました。
大手にはできない「ジャングル戦」と「留め型」戦略

ーー競合他社との差別化はどのようにして図っているのでしょうか。
中澤謙次:
我々の戦い方は、よく「ベトナム戦争」にたとえられます。ベトナム軍が強大なアメリカ軍に勝てたのは、ジャングルに潜み、相手から見えない場所で戦ったからです。ビジネスで言えば、ジャングルとは「専門店(パティスリー)」の市場、平地とは「量販店や大手チェーン」の市場です。
大手乳業メーカーは、規模の経済が働く「平地」での戦いを得意とします。我々がそこで真っ向から価格競争を挑んでも勝ち目はありません。ですから、我々はまずジャングルである「専門店」の中で圧倒的な信頼を勝ち取ることに注力しています。具体的には、営業担当者が足繁く店に通い、シェフの悩みを聞き、きめ細かな提案を行う「顔の見える営業」です。大手が見落としがちな、この泥臭い人間関係の構築こそが、他社が入り込めない強力な参入障壁になります。
ーー大手チェーンなどの大規模な市場では、どのような戦略を取っているのでしょうか。
中澤謙次:
戦い方を変えて、徹底した「留め型(カスタマイズ品)」戦略をとっています。自社の既製品をそのまま納めるのではなく、その企業のニーズに完全に合わせた専用商品を開発・提供するのです。
たとえば、大手のカフェチェーンやパスタ専門店などが提供するメニューの「味」を、裏方として支えています。大手メーカーは効率を重視して大量生産を行いますが、我々はあえて小さな釜で丁寧に作るなど、手間のかかる小ロット対応を強みとしています。大手には真似できないこのニッチな領域こそが、我々の勝機なのです。
「世界標準」を目指す開発力と物流改革 変わらぬ人間関係を原点に

ーー今後のビジョンについてお聞かせください。
中澤謙次:
まず注力するのは、開発力のさらなる強化です。大手企業の細かなニーズに即応し、「留め型」商品を提案し続けるためには、開発のスピードと質が命です。現在、開発スタッフは全従業員の5%(10名程度)ですが、将来的には倍増させ、全従業員の1割にあたる20名体制に引き上げたいと考えています。全従業員の1割が開発に携わる食品メーカーというのは、極めて稀有な存在でしょう。技術力を最大の武器と位置づけ、それを確実に収益へと繋げていく盤石な体制を築き上げます。
もう一つは、海外展開の拡大です。現在は台湾や香港が中心ですが、今後はさらに南下し、将来的には欧米への輸出も視野に入れています。実は、日本の生クリームは世界的に見ても品質が高く、海外のパティシエから「世界一美味しい」と評価されることもあります。この価値を広め、日本の生クリームを世界標準にしていきたいですね。
ーー国内の物流問題についてはいかがでしょうか。
中澤謙次:
これは喫緊の課題です。現在は自社便を中心に配送していますが、たとえば、カフェ1店舗に月5000円程度のクリームを届けるためにトラックを走らせることもあります。また、広いエリアを1日300km走っても、荷台は半分しか埋まっていないという非効率な状況も発生しています。これではドライバー不足やコスト増の中で持続可能とは言えません。
そこで進めているのが、ECサイトの活用と宅配便ネットワークへの切り替えです。小口のご注文に関してはネット経由に切り替え、ヤマト運輸などの強固なインフラを活用して確実にお届けします。送料のルールは必要になりますが、これによって物流の無理をなくし、お客様への安定供給を守る。この切り替えを急ピッチで進めています。
ーー最後に、お客様や読者の皆様へメッセージをお願いします。
中澤謙次:
創業の地・新橋で牧場を営んでいた頃から、私たちのビジネスの根幹には常に「人間関係」がありました。だからこそお客様には、これからも私たちに対して厳しくあってほしいと願っています。社内で上司に叱られるよりも、お客様からの厳しいご指摘こそが、本当の意味で社員を育て、会社を強くしてくれるからです。皆様からの期待にしっかりと応え、襟を正して「安全で安心な商品」をお届けし続ける。それこそが、私たちの変わらぬ使命です。
編集後記
「社長業とは、偉いから務まるのではなく、重要な決断をする役割だから務まるのだ」。中澤氏のこの言葉は、自身の経験と実績に裏打ちされた強烈な説得力を持っていた。古い体質の打破、工場改革、そして「ジャングル戦」と称する緻密な差別化戦略。そのすべてにおいて、中澤氏は「現状維持」という心地よい座椅子を蹴り飛ばし、自ら汗をかいて現場を変えてきた。全社員の1割を開発職にするという大胆な構想と、自らの引き際まで明確にする潔さ。老舗企業の看板に甘えないこの覚悟がある限り、同社の進化は止まらないだろう。

中澤謙次/1972年東京都生まれ、神田外語大学卒。2000年に中沢乳業株式会社に入社。2009年にはグループ会社のサンワ乳研株式会社の社長に就任し、愛知県長久手市に新工場を建設。その後2014年に同社代表取締役社長に就任。現在は同社グループの多様化への挑戦と海外へ日本の乳製品の価値向上を目指し、日々邁進している。週末は美味しいレストランの開拓とランニングで汗を流すことがライフワーク。