※本ページ内の情報は2026年4月時点のものです。

有馬温泉で700年の歴史を持つ「兵衛向陽閣」を運営する株式会社兵衛旅館。1991年の急な事業承継、阪神・淡路大震災、そしてコロナ禍という未曾有の危機を幾度も乗り越えてきたのが、代表取締役社長の風早和喜氏だ。現在は、全国屈指の大型旅館としての強みを活かしつつ、従業員満足度の向上やDX推進など、次世代に向けた組織変革に全社を挙げて取り組んでいる。「これからの10年、20年は、過去700年以上の劇的な変化が起こる」と語る風早和喜氏に、老舗旅館の生存戦略と未来への展望をうかがった。

修行時代と突如訪れた継承の苦難を乗り越えた雇用の決意

ーー家業を継がれるまでの経緯と、社長就任当時のエピソードを教えてください。

風早和喜:
ホテル経営について必要な知識を学ぶうちに、自然と家業を意識するようになりました。その後「よそを経験すべき」という方針のもと都ホテル(現・株式会社近鉄・都ホテルズ)に入社し、さまざまな部署を回りながら実務を経験しました。家業に入ってからは、予約業務やフロント業務のほか、エージェントとのやり取り、業界団体や町内観光協会の活動にも従事してきました。

転機が訪れたのは1991年のことです。父の急逝により、突如として事業を承継する運びとなりました。当時は先々代である大叔父や女将の母に支えられながら手探りで経営にあたっていたものの、その後、初めての大きな危機となる阪神・淡路大震災に直面します。建物への影響から客室数を減らさざるを得ず、苦渋の決断として従業員に希望退職を募ったことは、今でも胸の痛む経験として忘れることができません。だからこそ、直近のコロナ禍という2回目の危機においては、「雇用を守ること」を第一に掲げて乗り越えてきたのです。

ーー貴館の強みと、多くのお客様に愛され続ける理由は何だとお考えですか。

風早和喜:
当館は有馬温泉の中でも屈指の大型旅館であり、「一の湯」から「三の湯」までの多彩な温泉、部屋食や宴会場、3つのレストランを備えていることが大きな強みです。滞在中の過ごし方の選択肢が非常に多いため、幅広い客層のニーズを満たすことができます。

また、リピーターのお客様が非常に多いのも特徴です。私たちは突出した独自のサービスを追求するよりも、まずは基本に忠実なおもてなしを徹底する姿勢を大切にしています。日々の業務におけるヒューマンエラーを極力減らし、どの従業員であっても常に一定の高い水準で接客を行う。こうした地道な取り組みの積み重ねが、「いつ訪れても変わらない」という深い安心感を生み、結果として多くのリピーターのお客様からのご支持につながっているのだと思います。

ーーその安心感を生み出すために、どのような教育をされていますか。

風早和喜:
フロントスタッフだけでなく、厨房や清掃のスタッフまで含めた全従業員が接客の研修を受けています。マニュアルの整備はもちろん、検定の受験や外部講師による講習も実施してきました。ただし、「ルールを全部守れ」と押し付けるのではなく、学んだことを参考にしつつ、従業員それぞれが自分なりに解釈し、質の高い接客を体現してほしいと伝えています。

従業員満足度の向上とAI・DXによる組織変革

ーー従業員の働きやすさや、組織づくりについてお聞かせください。

風早和喜:
「感動は一人ひとりの笑顔から」という言葉を大切にしています。従業員自身が笑顔で働ける環境がなければ、お客様に良い接客はできません。そのため職場環境の改善には力を入れており、総務担当の役員が従業員の働きがいを高めるために全従業員と面談するなど、積極的に動いてくれています。具体的な改善例として、これまでの「たすき掛け勤務(中抜けシフト)」をできるだけ1日勤務に変更し、身体的な負担を軽減しました。また、部署間のコミュニケーションを活性化し、風通しの良い組織づくりを進めています。

ーーDXやテクノロジーの活用については、どのような取り組みをされていますか。

風早和喜:
補助金を活用して予約システムを更新し、紙伝票の削減や、客室などから大浴場の混雑状況確認ができるようにするなど、着手できることから進めていますが、まだまだ道半ばです。今後はAIなどの最新技術も積極的に取り入れ、組織全体として生産性をさらに上げていきたいと考えています。

老舗旅館が挑む組織改革とブランディングで切り拓く未来

ーー従業員の働きやすさを向上させるために、何か取り組まれていることはありますか。

風早和喜:
現在、総務担当の役員が全従業員との面談を実施し、現場の率直な意見や要望にしっかりと耳を傾けることで、風通しの良い職場づくりを進めています。加えて、勤務形態の改善にも着手中です。この業界では昔から、朝に出勤して休憩を挟み、夕方から翌朝まで働くという「中抜け勤務(たすき勤務)」が昔からの基本でしたが、少しでも働きやすくなるようにできる限り「一日勤務(通し勤務)」への移行を図っています。

さらに、部署間の垣根を越えた交流の機会も設けてきました。コロナ禍が明けてからは全社員での新年会の開催や研修旅行などを企画しており、普段は接点を持たない他部署のメンバー同士の仲を深めるきっかけとなっています。

こうした取り組みを進める根底には、当館が掲げる「感動は一人ひとりの笑顔から」というスローガンへの思いがあります。「お客様に対して笑顔で接客しなさい」とただ伝えるだけでは意味がありません。従業員一人ひとりがストレスを抱えることなく、心から楽しい気持ちで働ける環境を会社が率先してつくっていく。そうした職場環境の地道な改善があってはじめて、お客様への自然で温かい笑顔が生まれるのだと信じています。

ーー最後に、今後のビジョンについてお話しいただけますか。

風早和喜:
現在、マーケティングやブランディングの強化を行っているところです。たとえば客室の改装においては、有馬の山々や温泉を連想させる色調を壁や絨毯へさりげなく取り入れました。また、庭園には長年親しまれているお馴染みのCMソングが流れる写真映えスポットを新設してSNSでの発信につなげているほか、今後は当館オリジナルの土産物ブランド『兵衛印(ひょうえじるし)』の品数も拡充していく予定です。

当館は、有馬温泉という地場産業と深く結びついています。だからこそ、限りある資源である泉源や、県内でも希少となった芸妓文化を守り抜く使命があるのです。来年の設立90周年、そして100周年に向けて、お客様の満足、従業員の働きやすさ、そして会社の利益という3つのバランスがとれた経営を追求していきます。

これからの10年、20年は、過去700年の歴史では経験したことのないようなスピードで、劇的な環境変化が起こるでしょう。世の中の動向やお客様のニーズの変化をいち早く察知し、柔軟に自らを変革し続けることで、次の時代を力強く切り拓いていきます。

編集後記

風早氏の言葉からは、700年以上の歴史を背負いながらも、未来を見据えて変革を厭わない強い覚悟が感じられた。伝統を守るとは決して過去のやり方に固執することではなく、環境の変化に合わせて自らを柔軟にアップデートし続けることなのだろう。総務役員による現場の声の吸い上げやDXへの積極的な姿勢からは、老舗という看板に甘んじない実直な組織の在り方が伝わってきた。「当たり前のことを疎かにしない」という誠実な土台の上に築かれる「兵衛向陽閣」の新たな100年への歩みに、今後も注目していきたい。

風早和喜/1951年兵庫県生まれ。関西学院大学卒。都ホテル(現・株式会社近鉄・都ホテルズ)に入社し、1年半の修業期間を経て1977年に株式会社兵衛旅館へ入社。1991年に同社代表取締役社長に就任。有馬伝統文化振興にも注力している。