
株式会社井筒は京都を拠点に300年以上続く老舗企業である。代表取締役社長の井筒與兵衛氏は「伝統とはあえて守るものではなく、自然と内に息づくもの」と捉え、大胆な分社化、マニュアルに縛られない社風づくり、従業員の賃金向上のための値上げなどに取り組んでいる。予定調和を排し、本質的な対話を重んじる同氏に、独自の経営観をうかがった。
現場で学んだ商売の多様性と組織改革の軌跡
ーー家業を継ぐまでの経緯を教えていただけますでしょうか。
井筒與兵衛:
生まれた時から家業を継ぐことが当たり前だと思っていたため、疑問を抱くことなく受け入れていました。幼少期は10人から20人ほどの女中さんがおり、会社と家が一体化しているような環境で育ちました。大学時代は京都大学の畜産学科に在籍し、ラットの体外受精などの実験に没頭する一方で、写真部で卒業アルバムを制作して利益を得る経験もしました。卒業後は別の会社で2年3ヶ月ほど勤めた後に、井筒へ入社。入社後は一つの部署にとどまらず、複数の部門を3年ごとに異動し、お寺(浄土真宗、真言宗)や神社を顧客とする部門のほか、東京での勤務も経験しながら、平社員として現場の業務に奔走しました。
ーー現場で印象に残っていることはありますか。
井筒與兵衛:
お寺と神社における、意思決定プロセスの明確な違いです。お寺の場合、ご住職と奥様がその場で決断を下すため、決裁権が現場にあり即決されます。一方で神社は、会社のように見積もりを提出し、会議を経て決裁されるシステムでした。見積もりの金額だけで判断されると、本当につくりたい質の高いものがつくれなくなるという、商売の難しさと多様性を肌で学びました。
ーーその後、社長に就任されてからどのようなことに取り組まれたのでしょうか。
井筒與兵衛:
かつて1つの組織でしたが、10ほどの会社に分割しました。平社員時代に直面した現場の課題を解消するためです。赤字になることが分かっている部門であってもあえて独立させ、責任の所在を明確にしました。必要に応じて事業を整理し、組織の形を柔軟に変えながら新陳代謝を図っています。
伝統は「守る」ものではなく自然と受け継がれるもの

ーー300年以上続く貴社の伝統をどのようにして守ってこられたのですか。
井筒與兵衛:
そもそも「守る」という意識はありません。私は京都で生まれ育ち、基礎的な素養はすべてこの街で身につけました。DNAは親からのものです。人間が「人間であろう」と意識して努力しないのと同じで、私のすべては私以外のものでつくられています。自然体でいることが、結果として伝統の継続と言われても不思議はありません。
私は誰か他のロールモデルを追うことはしません。そもそも「私」という人間は、自分の意志だけでできあがったわけではないと思っています。孫悟空が遠くまで飛んだつもりでも、結局はお釈迦様の手のひらの上にいたという話のように、私のオリジナリティも過去や背景を反映したものにすぎません。だからこそ、その背景からつながる今の自分をありのままに受け入れるようにしています。
ーー会社を存続させるというプレッシャーは感じないでしょうか。
井筒與兵衛:
会社を長く存続させること自体を、重荷に感じることはありません。大抵の企業は10年続けることすら難しいと言われる中で、井筒は300年以上の歴史を歩んできました。これほど長く続けてこられたのは、幸せなことです。その時々の目の前の仕事に真摯に向き合って、一代一代が、それぞれの起業をしてきた結果だと捉えています。
だからこそ、あえて壮大なビジョンを社員に掲げるようなことはせず、「日々ささいな事を前向きに、仕事ができる日常を送りたい」という思いを大切にしています。そうした楽観的な思いをもって目の前の仕事をする、その積み重ねが何より重要だと思っています。
ーー事業を展開する上で大切にしている指針は何でしょうか。
井筒與兵衛:
大事なのは、「10年を考えて」、お客様の「30センチ先」を提示することだと考えます。あまりに尖った最先端の提案をするのではなく、少し先のニーズを捉えながら、長期的な視点を持つ。実利と精神性のバランスを追求することが重要だと考えています。
マニュアルより「風土」 社員の給料を上げるための戦い
ーー組織づくりにおいて特に注力されているテーマを教えていただけますか。
井筒與兵衛:
細かい規則を作るよりも、当たり前のことが当たり前にできる社風を育むことです。たとえば、育児休業を「権利」として声高に主張せずとも、自然に取得でき、当然のように元のポジションに戻れる雰囲気が生まれることを大切にしています。また、私自身が3年で同じことに飽きてしまう性格です。3年経てば新しい仕事ができるよう、多くの仕事は他者に任せられる状態に整えることを心がけています。
経営の方向性を伝える際も、全員を集めて一方的に訓示を垂れるようなことはしません。1人の社員に対して2時間、3時間とじっくり時間をかけて対話するなど、一人ひとりと向き合います。完全に理解してもらえなくとも、対話を通じて経営の方向性や賃金の考え方をなんとなくでも理解してもらえるよう、「口説く」プロセスが大切だと考えています。
ーー他に取り組まれていることはありますか。
井筒與兵衛:
弊社では内職の方の時給や、社員の給料を上げることを優先事項としています。利益が出てから給料を上げるのではなく、まず先に給料を上げる。そしてそれを成立させるために、お客様に納得していただいているかいないか分からないけれども、商品の値上げをしました。賃上げの為に退路を断って取り組んでおり、これは会社にとっての一つの「戦い」です。
編集後記
予定調和の質問を排し、本質的な対話を求めた井筒氏。300年の重圧を感じさせない軽やかさと、社員の生活を豊かにするために「値上げの戦い」に挑む力強さが共存していた。型にはまらない自身のアイデンティティを大切にする経営のあり方は、変化の激しい現代において、企業がどう生きるべきかの一つの答えを示しているのではないだろうか。

井筒與兵衛/1953年京都市生まれ。京都大学卒業後、安田多七株式会社に入社。1978年株式会社井筒に入社し、1996年同社代表取締役社長に就任。