
「安心」を求める限り、新たな価値は生まれない。脳科学の研究者からビジネスの世界へ転身し、組織開発や人材育成の領域で独自のAIサービスを展開するのが、株式会社シンギュレイトの代表取締役である鹿内学氏だ。同社は過去の実績に基づく「信用」ではなく、未知の未来へ賭ける「信頼」に着目する。対話を軸としたマネジメント手法と科学的根拠に基づくAI技術を掛け合わせ、企業に変革をもたらす同社の強み。そして、これからの組織に必要な「学習」のあり方について聞いた。
アカデミアからビジネスへ 「意思決定」の手触りに惹かれて
ーーアカデミアの世界からビジネスへ転身した最大の理由は何ですか。
鹿内学:
個々人が自ら意思決定し、主体性を持って動くビジネスのスピード感に惹かれたからです。もともと私は、京都大学や国家プロジェクトなどで脳科学の研究をしていました。研究自体には大きなやりがいを感じていましたが、複数の企業などと連携する中で、少人数で突き抜けることはできても、多様なステークホルダーと連携して新たな価値を生み出す仕組みが学術界には欠けていると気づいたのです。技術的な「発明」と、社会に価値をもたらす「革新」は違うと感じていました。
そんな中、ビジネスに関わる人々と話す機会がありました。彼らは非常に早く、自らの裁量で主体的に「意思決定」をしており、その姿に驚きました。大学の研究は国の予算を使うため厳しい説明責任が伴い、個人の裁量で素早く決断を下すのは困難な環境です。この意思決定の手触りと主体性の違いが、ビジネスの世界へ飛び込む最大のきっかけになりました。
過去に基づく「信用」と未来に賭ける「信頼」の違い
ーー「安心」ではなく「信頼」を組織づくりの基盤に置くのはなぜでしょうか。
鹿内学:
未知の課題に挑み、組織を拡大させるためには、過去の蓄積よりも未来志向の関係性が不可欠だからです。新しい挑戦には必ず不安が伴います。この不安を取り除こうとするアプローチが「安心」の構築です。安心を得るには過去の実績を確認しなければならず、これは担保を消費する「信用」に近い概念であり、本質的には後ろ向きの思考だと言えます。
一方で「信頼」とは、心配や不安を抱えたまま、未来に向かって相手に賭けることです。前人未到の価値を生み出すとき、過去の実績は誰にもありません。「心配」の「パ」を「ラ」に変えて「信頼」へと転換する。リスクを承知で相手を信じ抜く関係性こそが、個人の能力をスケールさせ、これからの組織をつくる要となります。
平均を上げる「育成」から自ら突き抜ける「学習」へ
ーーその「信頼」を軸として、具体的にどのような事業を展開していますか。
鹿内学:
「対話」をハブとして、組織開発や人材開発の課題を包括的に解決するサービスを提供しています。現在、世の中には組織サーベイや研修など、多様な課題解決の手法があります。しかし、それらは独立して存在し、連携していません。私たちは1on1などの対話ツールを通じて、面談からアクション、効果の検証までを一連のサイクルとして回す仕組みを構築しています。
マネジメントにおいて、私は「育成」という言葉をあまり好みません。「育成」は教える側の視点であり、人材を平均的な水準へ引き上げるには有効です。しかし、そこから突出した成果を出すには、自ら「学習」する必要があります。自分が何を学ぶべきかを主体的に考える。この自律的な姿勢を支援する上で、最も重要なのが「対話」なのです。個人の希望と企業がやってほしいことを対話ですり合わせるピープルマネジメントが、今後の組織運営の要となります。
科学的知見をAIに実装 独自の競合優位性と「伴走」の価値

ーー市場に多数のサービスが存在する中、貴社のAIが持つ強みは何ですか。
鹿内学:
最大の強みは、心理学や組織論といった「人間の科学」に関する体系的な知識を、AIに実装している点です。一般的なAIの活用では、企業のログデータを大量に読み込ませ、経営者の話し方を模倣したAIをつくろうとします。しかし、本質的な専門性が伴っていないため、対話の質が途中で破綻する傾向にあります。
一方、私たちのAIは科学的根拠に基づいています。「このような心理状態の相手には、こう質問する」といった専門家の科学的な知見を組み込み、情報を構造化しているのです。単なる最新技術の活用にとどまらず、学術的なサイエンスの根拠を埋め込んでいるため、高い専門性と再現性を持ったサービスを提供できます。
ーー優れたシステムを組織に定着させるため、どのような支援を行っているのでしょうか。
鹿内学:
専門的なプロフェッショナルサービスとして、顧客に「伴走」することを非常に大切にしています。どれほど優れたDXの仕組みであっても、導入するだけで組織に定着させるのは困難です。新しいAIを導入することは、いわば優秀な人材を採用するのと同じです。オンボーディングをしっかりと行い、AIが組織内で活躍できる状況を作らなければなりません。
そのため、私たちが現場と人事の間に入り、対話のファシリテーションを行いながら定着を後押しします。システムを売って終わりにするのではなく、企業と一丸となって変革のサイクルを回すことに、私たちの真の価値があると考えています。
編集後記
学術界の知見とビジネスの実践を融合させ、組織のあり方を根本から問い直す鹿内氏。未知の領域に踏み出す際、私たちはつい過去の実績や根拠を求めてしまうが、「真に革新を生むのはリスクをとって相手に賭けることだ」という言葉は、激動の時代を生きる企業にとって重要な指標となる。また、AIに単なる過去のデータを学ばせるのではなく、科学的な体系を実装するアプローチは非常に合理的かつ興味深い。同社が「対話」を通じて組織をどう変革し、今後どのような価値を社会に生み出していくのか、引き続き注目したい。

鹿内学/奈良先端科学技術大学院大学で博士号を取得。京都大学などの研究機関の教員・研究員として、ヒトの脳(認知神経科学)の基礎研究に第一線で従事。その後、大手人材企業でピープルアナリティクスの事業開発に取り組む中、株式会社シンギュレイトを設立。「信頼」をキーワードに、人と人との新しい関係・関係性を作り、新結合(イノベーション)を増やすことを目指す。