
ビルメンテナンスや環境衛生管理において半世紀以上の歴史を持つシェル商事株式会社。同社は今、発生した虫を駆除するという従来の事後対応に加え、建築の設計段階から環境リスクを織り込み、発生自体を抑制するアプローチへと事業領域を拡張している。
「『害虫』という名前の虫はいない」と語る同社代表取締役社長、岡部美楠子氏。命を奪うことへの葛藤を起点に、従来の「発生後対応」から「設計段階で制御する」へと発想を転換し、都市環境における人間と生態系との関係性を再設計する取り組みについて話を聞いた。
都会の生活で失われた「生き物」とのつながり
ーーまずは、今のビジネスの根底にある、ご自身の原体験について教えていただけますか。
岡部美楠子:
幼少期は馬と触れ合う機会が多く、馬だけでなく、そこに集まってくる虫や植物など、自然の中でさまざまな生き物と触れ合っていました。しかし、弊社に入社し、都市での衛生業務に身を置く中で、現代の都市環境がいかに自然とかけ離れ、人間以外の生き物の存在を前提としていない空間になっていることに気づかされたのです。
本来、土があり、水があり、緑がある場所には、必ず多様な生き物が集まり、相互に関係しながら生態系を形成します。元々は害虫駆除を主軸としてきた弊社ですが、この前提が抜け落ちたまま都市が設計されていることに、違和感を覚えるようになりました。
ーー具体的にはどのようなことを考えられたのでしょうか。
岡部美楠子:
たとえば、建物の中高層階まで緑を配置するケースが増えています。緑があれば当然そこには水が必要になり、その結果として昆虫をはじめとする生物の生息環境が生まれます。それにもかかわらず「虫が出たから駆除してくれ」という依頼があることに違和感を抱いていました。生物の発生は偶然ではなく、設計や環境条件によって誘発される現象でもあります。本来は設計段階から“リスク”を測定し、コントロールすべきものではないかと考えるようになりました。
「命を奪う」既存手法への葛藤と事業の存在意義を問う転機
ーー家業に入られてから、新たに抱いた思いはありましたか。
岡部美楠子:
入社後、現場経験を重ねる中で、一流ホテルや商業施設などの清潔な空間でも虫が発生し、それに対して化学薬剤で駆除する現実を目の当たりにしました。そのとき、薬剤による駆除が必要な場面はある一方で、発生後に命を奪う対応だけを続けることに、強い違和感を覚えました。もちろん、衛生管理の観点から必要な対応であることは理解していましたが、「本当にこの手段しかないのか」という問いについて深く考えるようになりました。
ーーその強い葛藤を抱えながら、どのようにして事業のあり方を見つめ直していったのですか。
岡部美楠子:
入社から約10年が経ち、事業の将来を考える中で、大学院に進学し、経営を学び直しました。そこで出会った恩師に繰り返し問われたのが、「この事業を、私自身がやる意義は何か」という問いでした。
その問いに向き合う中で、「発生したものを処理する」という後追い型の構造そのものに限界があるのではないかと考えるようになりました。生物の発生要因に遡り、設計段階から制御する方向へと発想を転換していったのです。この学びをベースに2018年に8thCAL株式会社を立ち上げ、啓発・教育に加え、発生要因に遡った予防設計の取り組みを進めています。
「害虫」という名前の虫はいない 業界の常識を覆す視点

ーー「害蟲展」などの啓発活動にはどのような思いが込められていますか。
岡部美楠子:
「雑草」という名前の草がないように、「害虫」という名前の虫はいません。人間にとって不都合だから「害虫」と呼ばれているだけで、彼らは本来、分解者として生態系の中で重要な役割を担っています。それが都市という人工環境に適応してしまった結果、人間の生活と衝突しているだけなのです。
この構造を理解せずに「排除する対象」として扱い続ける限り、同じ問題は繰り返されます。だからこそ、まず「都市衛生」や「生物管理の在り方」の認識を変えることが重要であり、「害蟲展」での活動が、そのきっかけの一助になればと考えています。
ーー今後の活動として教育現場などとの連携も視野に入れているのでしょうか。
岡部美楠子:
はい。幼少期の経験によって、生き物に対する認識は大きく変わります。単に「気持ちの悪いもの」として排除するのではなく、生物の役割や発生の背景を理解することが、結果として適切な距離感や管理の在り方を考える基盤になると考えています。
駆除から予防&共生へ 「nature+」という未来
ーー今後の注力テーマや貴社が目指す展望についてお話いただけますか。
岡部美楠子:
これからは「発生後に対処する」から、「発生させない設計」へと移行していく必要があります。そのためには、建築や都市計画の段階から、生物発生リスクを前提として組み込むことが不可欠です。
例えば、緑化計画、水の導線、廃棄物管理といった要素は、全て生物の発生に影響します。これらを分断せず、一つの環境として総合的に捉えることで、初めて持続的な管理が可能になります。
ーー「nature+」という概念について教えてください。
岡部美楠子:
「nature+」は、単なる思想ではなく、環境と人間活動の関係性を再設計するための判断基準であり、実際の設計・運用・管理に落とし込むためのフレームワークでもあります。生物を無条件に受け入れるということではなく、人間の活動と生物の活動が衝突しにくい環境条件を設計することが重要だと考えています。そのうえで、どこまでを許容し、どこから抑制するのかというバランスを設計段階から組み込むことで、持続可能な都市環境を実現することを目指しています。
従来のように問題が起きてから対処するのではなく、そもそも問題が顕在化しにくい構造をつくる。この考え方を社会実装していくことが、今後の大きなテーマです。まだ正解が確立されていない領域であるため、自ら仮説を立て、検証しながら前に進めていく姿勢が求められます。このムーブメントのきっかけとすべく、「species」というオウンドメディアも立ち上げました。業界の垣根を越え、建築・都市・環境といった異なる分野を横断し、「構造的に物事を捉え、前提から問い直すことができる」さまざまな方々と一緒に取り組みを進めています。
編集後記
「『害虫』という名前の虫はいない」。この力強いメッセージは、私たちが当たり前のように享受している都市環境の前提を鋭く問い直すものだった。日々の業務の中で抱き続けた矛盾や葛藤から逃げず、むしろその本質と正面から向き合ったからこそ、事後対応から「予防設計」へという革新的なアプローチが生まれたのだろう。建築段階からのリスク管理や、「nature+」というビジョンは、単なる企業の生存戦略を超え、人間と自然の新たな共生モデルを社会に提示している。シェル商事株式会社が描く、寛容で持続可能な未来の街づくりに期待が高まる。

岡部美楠子/東京都生まれ。大学卒業後、異業種2社の企業経験を経て、シェル商事株式会社に入社。2010年に創業者である父から事業承継し、代表取締役社長に就任。建物衛生管理・害虫防除・水質検査など都市の環境衛生事業を展開する。2018年に8thCAL株式会社を設立し、都市環境と生態系の共生をテーマに、環境衛生分野の新しい価値創出に取り組んでいる。