※本ページ内の情報は2026年9月時点のものです。

図面も読めない状態で鉄工所を任され、携帯電話黎明期には作業着姿で地域トップの販売記録を叩き出した、株式会社マノサリーの代表取締役である谷村全功氏。絶体絶命の窮地を救ったのは、損得抜きで同氏を信じ、手を差し伸べた分厚い「人脈」だった。現在、同社の事業は内装工事にとどまらず、映画を通じた地方創生や富裕層向けホテル開発にまで拡大している。己の「好き」に一切の妥協を許さず、面白さを突き詰めてきた熱意ある仕事への向き合い方を紐解く。

図面も読めなかった鉄工所時代と携帯電話ビジネスでの大ヒット

ーーまずは、これまでの歩みについて教えていただけますか。

谷村全功:
学生時代は、まったく勉強せずにバンド活動に明け暮れていました。親族は高学歴な人が多かったのですが、父自身はそれに反発していたようで、私に対しては「学歴を追いかける必要はない。好きなことをやれ」と言ってくれていたため、その言葉を真っ直ぐに受け止めていたのです。

その後、音楽以外に好きなデザインの専門学校へ進学したものの、夏休みに父が経営する塗装工場を手伝ったところ、非常に忙しく、そのまま学校へは通えなくなってしまいました。ただ、父は塗装以外にも鉄工所を経営していたので、通勤時間のかかる現場を抜け出す口実として、「鉄工の方に力を入れた方がいいのではないか」と提案したのです。ところが、親方が辞めるタイミングと重なり、急遽、私が鉄工所を任されることになりました。

当時はまともに図面も見られない状態だったため、発注元である企業の担当者の方へ聞きに行き、「これはどこからどう見ているのですか」と率直に尋ねました。ゼロから加工の仕方や記号の意味を教えていただきながら、なんとか仕事を覚えていったのが、私のビジネスにおける原点です。

ーー鉄工所の次は、どのような事業をご経験されたのですか。

谷村全功:
当時、携帯電話がちょうど世に出始めた頃で、父親がセルラー(現:au)社の1次代理店の権利をとってきたのです。そこで鉄工所の2階にある木造の事務所で、私と兄の2人体制で携帯電話の販売を始めました。私自身は現場の作業着のまま契約をとるような環境でしたが、保険会社や自動車販売店の方々に「取扱店をやっていただけませんか」と直接お願いしに行ったのです。

その結果、彼らがどんどん契約をとってきてくれたおかげで、地域で1位の販売数を記録しました。セルラーの株主にはそうそうたる顔ぶれが並んでおり、年に1回パーティーが開催されていました。そこで若き日の稲盛和夫氏からもお声がけいただきましたね。

「全財産72円」の絶望とピンチを救った周囲の支援

ーー順風満帆に見えますが、その後苦労はなかったのでしょうか。

谷村全功:
父親の病気をきっかけに、金融機関から資金の返済を求められたことがありました。その結果、会社が倒産することになってしまいました。家も貯金もすべて差し押さえられ、家中を探しても「72円」しかないという絶望的な状況に陥ったのです。

ーーそこからどのようにして再出発を果たされたのでしょうか。

谷村全功:
完全にゼロからのスタートとなる中、本当に周囲の人々に助けられました。お金がないことを取引先の会長に正直に相談したところ「あんたは逃げへん」と、信頼だけで内装の見積をしていた金額を先払いで数千万円の小切手を切ってくださったのです。

また、前の会社は倒産して「今の会社ではまだ給与は支払えないので出勤しないで」と頼んだにもかかわらず、何もなかったかのように出勤してくれた2人の社員の存在も大きかったです。何より、大手企業に在籍していた友人やお知り合いからこの小さな会社をひっぱっていただかなければ、今の私はなかったと思っています。

確かな信用を得て少数精鋭のチームで10億円超えの売上高を計上

ーー現在はどのような体制で事業を展開されているのでしょうか。

谷村全功:
以前は複数の会社を展開し、内装業をはじめ、居酒屋やパン屋、ライブハウスなどを手掛けていました。役員をしていた会社を含めると、正社員やパート従業員を合わせて300名を抱えていた時期がありました。しかし、これだけの人たちの生活を守らなければならないというプレッシャーと、何より会社を守り伸ばす為には自分の本来やりたいことはできないと感じたのです。その経験から、現在は法人として組織を大きくせず、社員の人数も最小限の体制で10億円超えの売上高を出しています。信頼できる協力会社とチームを組み、私たちが間をつなぐ形で事業を進めるスタイルです。長年のご縁と人脈もあり、現在は某企業の内装工事などを一括で引き受けたり、投資会社の物件である病院の修繕管理なども行っています。

ーー会社を経営される上で、これまで印象的だった出来事を聞かせていただけますか。

谷村全功:
秋田県を舞台にした映画制作へ寄付を行ったご縁から、現地の方の推薦で紺綬褒章を受賞させていただいたことがありました。紺綬褒章(こんじゅほうしょう)は天皇陛下から授与されるもので、事前に身辺などの非常に厳しい審査が行われます。その厳格な審査を通過して受章できたことは、結果として弊社が社会的に信頼できる、クリーンな会社であるという何よりの証明になったかと感じています。

映画で地方創生を実現しこれまでにないホテルをつくる

ーー新しい事業への取り組みについてお聞かせください。

谷村全功:
最近では映画の制作にも参画しています。たまたま映画関係の友人が沢山いますので、さまざまな作品の裏方として関わってきました。納品前の映像を精査するため、自社のオフィスに本格的なスクリーンを備えた部屋を設けるほど力を入れています。

さらに、この映画づくりを通じた新しい地方創生の形も提案中です。市町村が制作費の一部を協賛する従来の形ではなく、自治体が主体となって映画をつくるという構想を描いています。「税金を映画に投入するのか」と反対されるハードルはあります。しかし地域の魅力的な場所で撮影を行えば、公開後に聖地巡礼としてファンがロケ地を訪れる流れを生み出せるはずです。作品を通じて人を呼び込み、街を活性化させて利益を生む仕組みに育てていきたいと考えています。

ーー映画制作以外にも、新たに構想されている事業はありますか。

谷村全功:
富裕層向けのホテル開発を企画しています。大型のホテルを建てるのではない方法を、現在、投資会社、開発会社と上手く進められないか検討中です。これからも自分の「やりたい」という気持ちに蓋をせず、面白いと感じることにどんどん挑戦していきたいですね。

編集後記

笑い交じりに当時の苦労を語る谷村氏の言葉からは、それらを乗り越えてきた者だけが持つ独特の強さと明るさが感じられた。すべてを失った同氏を救ったのは、ご自身の人脈と人徳だ。株式会社マノサリーは内装事業から映画制作、地方創生、ホテル開発へと、興味の赴くままに事業の枠を広げ続けている。困難をともに乗り越えてきた仲間と歩む次なる挑戦が、どのような景色を見せてくれるのか。その躍進から目が離せない。

谷村全功/1963年生まれ。大阪デザイナー学園を中退し、父の経営する会社に入社。鉄工所、塗装業、携帯代理店と多角的に経営していたため、技術やノウハウはすべて現場から習得した。後にその会社の別部署としてデザイン、内外装部署を立ち上げ、その後、独立。有限会社マノサリーを設立。増資後、株式会社マノサリーに商号変更して現在に至る。