
世に出る前の新商品開発を試作品という形で支える株式会社イナック。代表取締役社長の谷口博司氏は厳しい環境でのOA機器営業を経て、父親が創業した同社へ入社し、入社後は特定業界への依存体質を脱却すべく新規開拓を進め、事業を拡大させた。現在はトップダウン組織から脱却し、社員の自律を促す改革に注力している。国内外を見据え、次なるステージへと進む同氏に、変革の軌跡とモノづくりの本質を聞いた。
厳しい営業経験で培った粘り強さと家業への転身
ーーこれまでのご経歴と家業に入られた経緯をお聞かせいただけますか。
谷口博司:
もともと大学卒業後はOA機器の販売会社に勤めており、主に法人向けの複合機などを扱う新規開拓の飛び込み営業を担当していました。「ほしい」と思っていないお客様に提案するため、最初は断られるのが当たり前の状況でしたが、徐々に成果が出てくると仕事がどんどん楽しくなっていきましたね。
そんな中、入社3年目の頃に父が体調を崩して入院したことをきっかけに、イナックへの入社を打診されました。自分の力で稼げるようになっていた段階だったので最初は断りましたが、その後も母から強い説得を受け、最終的に入社を決意した次第です。
ーーイナックに入社された後、前職との営業手法に違いは感じましたか。
谷口博司:
お客様との信頼関係のつくり方や自己管理の面は共通していましたが、一方で事業構造が異なるため、営業手法については根本的に見直す必要がありました。弊社はお客様から依頼を受けてつくる受注生産であるため、前職のような飛び込み営業は非効率だと考えたのです。そこで注力したのが、インターネットを活用した仕組みづくりです。Webサイトの整備やSEO対策を進め、結果、現在では毎月約10件の新規問い合わせが入るようになりました。
また、私が入社した当初は売上の約7割を特定業界の仕事が占めていました。そんな状態では危険だと感じ、展示会などへ積極的に出展して新規開拓を進めたのです。結果として、当時100社弱だった取引先様は約450社に増え、7割を占めていた業界の割合も2割程度に落ち着いています。
「何のためにつくるのか」を深掘りする提案力と唯一無二の技術

ーー改めて、貴社の事業内容と他社にはない強みをお聞かせください。
谷口博司:
私たちは主にデザイナーや設計者の方が新商品を世に出す前の検証に用いる「試作品」を受注生産しています。強みは大きく分けて2つあります。
まずは、お客様の真のニーズを引き出し、最適な解決策を提示する「提案力」です。弊社は国内の従業員約40名のうち10名が営業職という、業界でも珍しい体制を敷いています。これは、言われた通りにただつくるのではなく、「プロとしてより良い選択肢を提示したい」という強い思いがあるからです。
たとえば「3Dプリンターで透明なものをつくってほしい」とご依頼いただいた際も、そのまま見積もりを出すことはありません。「そもそも何のためにつくりますか」と用途を深掘りし、もしそれが展示会に出展するモデルであれば、「それならアクリル樹脂を削り出してピカピカに磨き上げた方が、より美しい仕上がりになりますよ」とご提案します。切削加工や3Dプリンターなど、多様な選択肢から最適な方法を導き出す力が私たちの武器なのです。
そしてもう一つが、「透明試作品」の高い技術力です。本来は外から見えない機械の内部構造を透明な素材でまるごとつくり上げることで、内部の油や空気の緻密な流れを直接「見て」検証できる可視化モデルを提供しています。これには非常に高度な技術と独自のノウハウが必要ですが、お客様の「こんなものがあったらいいな」というイメージを確かな形にするため、日々妥協のないモノづくりを追求しています。
ーー国内での新規開拓のほか、海外市場へはどのような展開をされていますか。
谷口博司:
2019年に、アメリカ拠点の立ち上げを行いました。当時は営業部のリーダー職と並行して進めていたため、非常にハードな日々でしたね。本来であれば私が単身赴任で常駐する予定だったのですが、立ち上げ直後に新型コロナウイルスが猛威を振るい始めたのです。すでに工場をつくり始め、機械を購入して現地の従業員採用も進めていたものの、コロナの影響ですべて一度白紙に戻さざるを得ませんでした。
結果的に、ロサンゼルス中心部から南へ約30kmに位置し、多くの日本企業が拠点を置くトーランスという都市に営業所のみを残す決断をしました。コロナ禍が明けてからは、私ともう1名の営業担当の2人で出張ベースで渡米して営業活動を行い、受注した製品は日本で製造して飛行機で現地へ発送するという体制で現在も展開を続けています。
「決断が人を成長させる」 権限委譲で目指す売上高20億円の未来
ーー今後のさらなる事業拡大に向けて、現在はどのようなテーマに注力していますか。
谷口博司:
大きく分けて、「営業部門の教育体制の強化」「海外市場への展開」「製造現場の生産性・品質向上」という3つのテーマに注力しています。
まず1つ目の営業体制については、会社が今後さらに成長していく上で、お客様に最適な提案ができる優秀な人材を育て、長く活躍してもらうことが不可欠です。採用自体が難化している背景もあり、給与を含めた待遇面の改善や業務のマニュアル化などを通じて、社員が定着しやすい環境づくりを急ピッチで進めています。
2つ目の海外展開は、すでに進出している中国とアメリカの拠点をしっかりと軌道に乗せることが当面の最優先課題です。将来的にはインドやヨーロッパへの展開も視野に入れていますが、海外ビジネスは一筋縄ではいきません。特にアメリカでは現地工場の設立も必須だと考えており、足元を固めながら着実に取り組んでいくつもりです。
そして3つ目が、製造現場の強化です。弊社最大の武器は営業の「提案力」ですが、モノづくりの根幹である現場の歩留まりや生産性には、まだ大きな伸びしろが残されています。そのため、マシニング加工や塗装の経験を持つプロフェッショナルの方々を積極的にお迎えし、外部の知見も借りながら組織全体の底上げを図っていきたいと強く願っています。
ーー組織づくりの観点から求める人物像と、今後のビジョンについてお聞かせください。
谷口博司:
社員がワクワク楽しく働ける環境づくりと、待遇向上のためのスケールアップを目指しており、その実現に向けて売上高20億円を目標に掲げています。採用においては、スキル以上に「嘘をつかない」「他責思考ではない」「協調性がある」といった人柄を重視しています。みんなで気持ちよく働き、互いの良いところを引き出し合えるチームでありたいからです。
現在、社内では先代のトップダウン体制から脱却し、各責任者への権限委譲を進めているところです。「決断が人を成長させる」と私は信じています。社員が自ら考え、決断することで組織はより強くなるはずです。世の中に新しく生み出される商品開発のお手伝いという仕事に社員が誇りを持ち、楽しく働ける環境をつくっていきます。
編集後記
谷口社長の揺るぎない行動力と、未来を見据えて的確な一手を打つ柔軟な発想に強く惹きつけられた。特に印象に残ったのは、「決断が人を成長させる」という言葉に込められた、社員への深い信頼である。自身の権限を手放し、次世代のリーダーたちにバトンを渡していくその姿からは、ともに会社を大きくしていこうとする温かな熱量がひしひしと伝わってきた。名もなき試作品を通じて、世の中を驚かせる新商品を生み出し続ける同社。一人ひとりが主役となって躍動する組織が、これから世界を舞台にどんな未来を形づくるのか、期待が膨らむばかりだ。

谷口博司/1988年生まれ。愛知県岡崎市出身。名城大学卒業後、OA機器販売会社で営業を経験し、2014年に父の経営する株式会社イナックに入社。営業部リーダー、米国子会社CEOを経て、2025年5月に代表取締役社長に就任。