※本ページ内の情報は2026年10月時点のものです。

高圧ガスの小分け・販売を手がけ、長年ものづくりの現場を支えてきた株式会社マスコール。職人気質が強く男性中心のガスの業界において、大手同業他社やアパレル業界を経験した境順子氏が、30歳で家業である同社の代表取締役社長に就任。父が手広く展開していた事業の整理や拠点の統合を進め、経営の健全化を成し遂げた。現在は「ガスの民主化」を掲げ、食の分野への進出や「社内スナック」を通じた開かれたコミュニティづくりなど、次々と新たな挑戦を続けている。そんな同氏に、2028年の実現を目指す「マスコールパーク構想」の真意と、AI時代における「アナログな人の力」の価値について伺った。

大手ガス会社・アパレル業界から家業へ 社長就任を後押しした言葉

ーーまずは、社長に就任するまでの経緯についてお聞かせいただけますか。

境順子:
当初は、家業を継ぐ意思は全くありませんでした。大学卒業後は、父からの期待や勧めもあり、まずは大手のガス会社へ就職したのです。しかし、3年ほどで退社し、もともとの志望に近いアパレル業界へと転職しました。どちらの世界にも、それぞれの良さと大変さがあると身をもって感じられたことは、私にとって大きな財産でした。この経験から、仕事は「選ぶ」ものではなく、求められたご縁を、自分のタイミングとして前向きに受け止めるものだ——そう考えるようになりました。父も私をはじめから後継者にしようとは考えていなかったと思います。「営業の人が辞めたので、助けてくれないか」と声をかけられたのがきっかけです。私は父から頼まれたことがうれしく、親孝行のつもりで、1年間だけという条件のもと、家業に入った次第です。

ーー「1年間だけ」という条件から、なぜ社長就任を決断されるに至ったのでしょうか。

境順子:
覚悟を決める大きな転機となったのは、以前から親交のあった女性経営者でもあるコンサルタントの先生の言葉に背中を押されたことでした。社内に入ると、業績の低迷や多岐にわたる事業を一人で抱え込む父の苦労が見えてきました。そのもどかしさから、その先生に「今の私に何ができるか」と相談しました。すると先生は、逆に「経営者となる覚悟はありますか」と私に問い返したのです。業界のことも経営のことも知らない私に社長ができるのか。考えもしなかった問いに戸惑いましたが、「何を知っているかよりも覚悟が大事」と教えていただきました。

さらに、「日本ではまだ女性の経営者が少ない。だからこそ、あなたが挑戦することには大きな意味があるし、周囲も新しい挑戦を後押ししてくれるはずだ。今こそ、やるべきだ。」という力強い助言も受けました。その助言のもと、30歳という年齢で社長になる決意を固めたのです。

男性社会の洗礼と「不」の字解消による経営再建

ーー社長就任後、どのような壁にぶつかりましたか。

境順子:
最初の大きな壁は、「工場は男の世界」「製造現場は男の神聖な場所」と言われるような、職人さんが多く男性中心だった特有の空気感でした。当時、業界内に女性社長はほとんどおらず、工場へ行けば女性用トイレに困り、業界の懇親パーティーでは、私は配膳係と間違われることもありました。ここで自分が前面に出るよりも、まずは足元の数字を立て直すことが先決だ。そう判断しました。対外的な交渉は父に担ってもらい、自らは裏方に回り、まずは徹底して社内の財務改善に注力するという道を選んだのです。

ーー裏方として、具体的にどのような改善を進めたのですか。

境順子:
徹底的に無駄を省き、業績を回復させるために、あらゆる「不(負)」の字がつくものを解消していく目標を掲げました。たとえば、社員が抱える「不安」や、快適に仕事ができない「不快」な環境の改善です。同時に、父が果敢に挑戦して拠点を広げたものの、うまくいかずに生じていた負債や「不採算」な事業の整理にも着手しました。社員一人ひとりと「この『不(負)』を取り除くためにはどうすればいいか」を対話しながら、不採算事業からの撤退や拠点の統合を行い、業務の効率化を推し進めていったのです。その結果、危機的だった状況が好転し、数字も改善して、経営の健全化を図ることができました。

「ガスの民主化」と社内スナックから生まれた縁

ーー現在、特に力を入れている取り組みについてお聞かせください。

境順子:
「ガスの民主化」をテーマに掲げ、これまでの産業用・大口供給という枠を超えた挑戦を続けています。具体的には、個人商店をはじめとした身近な「食」の現場へ、ガス技術を届ける取り組みです。

コロナ禍で飲食店が苦境に立たされた際、補助金を活用して、ラボ施設「マスコラボ」を設立しました。ここでは、業務用機器の導入が難しい個人商店の方々に対し、窒素やアルゴンを用いた酸化防止ガスや急速凍結技術などの活用方法を提供しています。その結果、飲食店の軒先での自動販売機を活用した冷凍商品の販売支援から、酸素や炭酸などでアクアショップやメダカのブリーダーさん、DIYや小さな修理でのアルゴン利用など、これまでガスとは無縁だった一般の方々のサポートまで、幅広い層のお困りごとに尽力しています。ガス供給には色々なルールや条件がありますが、まずはどんなに小さな困りごとであっても耳を傾け、柔軟に検討を重ねていく。それが私たちの役割だと考えています。

ーーそういった外部とのつながりをつくるために、工夫されていることはありますか。

境順子:
社内外を問わずさまざまな方と交流する場として、自社の一部を会場にして月1回「社内スナック」を1年間定期開催し、現在も不定期のイベントとして年に数回開いています。私自身がママとなり、日頃お世話になっているお客様や地域の方々、取引先の方々に「どなたでも大歓迎ですので、気軽にうちの会社へ遊びに来ませんか」と広くお声がけし、ガスのことをもっと知ってもらうための開かれたコミュニティづくりを行っています。実際、お酒を飲みながらざっくばらんに話す中で、「実はこういうことで困っている」といった本音が飛び交うようになりました。そうした声から2025年の大阪・関西万博関連の支援案件など、新しいビジネス展開へのつながりも生まれています。

AIで効率化 人が介在する価値を高める「マスコールパーク」構想

ーー今後の展望や、実現したい目標についてお聞かせください。

境順子:
2028年に実現することを目標に「マスコールパーク構想」を掲げています。これは、製造現場であった工場(充填所)を開き、ガスを必要とする人や関心を持つ多様な人々が集う「ハブ(拠点)」へと生まれ変わらせる構想です。具体的には、工場をラボ化して人を招き、イベントを開催してコミュニティ化を図るとともに、危険物であるガスの安全性や正しい知識を知っていただく体験・相談の場にします。さらに、集まるガスの流通データや顧客データをAI等で活用し、お客様とつながることで管理の手間を省いたり、先回りしてアラートを出したりする利便性の高いサービスも付加していく計画です。

ガス業界のサプライチェーン上にある、特定の系列や取引関係だけにとどまる「垣根」を超えて、地域や興味関心を通じてマスコールパークでのつながっていく可能性を模索し、開かれた場をつくる考えです。奪い合う競争ではなく、みんなで助け合い、知恵を出し合うような温かいエコシステムを築いていきたいですね。

ーーエコシステムを実現するために、どのような人材を求めていますか。

境順子:
基盤を支える2種類のエンジニアが必要だと感じています。配管工事などの技術を持つエンジニアに加え、基幹システムの構築経験があるエンジニアを求めています。私たちは現在、AIドリブン経営を掲げて構造改革の真っ只中です。AIで効率化と管理補完をアシストし「人が介在すべきアナログな安心感やサービス」に注力する協業経営にシフトしていきます。

ガスという危険物を扱うからこそ、最後にお客様が「これで大丈夫」と思える安心・安全をお届けするのは人の力に他なりません。効率化が進む未来だからこそ、このアナログな価値をともに支え、優しい世界観をつくっていける仲間をお待ちしています。

編集後記

アパレル業界からの転身という異色の経歴を持つ境社長だが、その言葉からは現場への深い愛情と合理的な経営視点が同居していることが伝わってきた。男性中心の業界特有の壁を乗り越え、コロナ禍のピンチをチャンスに変えてきた行動力は圧巻だ。AIによる徹底した効率化の先に、「人の温もり」という究極のアナログな価値を見出す株式会社マスコール。2028年のマスコールパーク誕生に向けて、共創の精神で新たなエコシステムを築いていく彼らの航海に期待が膨らむ。

境順子/大阪府大阪市出身。大学卒業後、大手ガス会社、アパレル業界を経て2003年に現在の株式会社マスコールへ入社。在宅酸素の営業に従事後、2007年に2代目代表取締役社長に就任。組織・事業の基盤強化に取り組んだのち、産業ガスの民主化・サービス化を積極的に推進。2021年に産業ガスを利用した食品保存の実験などができるラボ施設を開設。大阪高圧ガス熔材協同組合では常務理事として保安・教育委員会の運営を担う。