【ナレーター】
時代とともに常に変化し続ける都市と建築。これらの計画・設計を担う職能の存在意義は年々高まってきており、人々の暮らしを支える重要なポジションと言っても過言ではない。
そんな中、120年の歴史を誇り、国内だけに留まらず世界の建築設計・都市デザインを手掛けてきた企業がある。株式会社日建設計だ。
建築の設計監理、都市デザインおよびこれらに関連する調査・企画・コンサルティング業務を行うプロフェッショナル・サービス・ファームである同社は、「価値ある仕事によって社会に貢献する」を理念としている。近年では中国やASEAN諸国、中東、インドやロシアにも進出し、世界の人々に豊かな体験を提供している。
2021年1月に就任した新社長の、「EXPERIENCE, INTEGRATED」というタグラインのもとに目指す次なる成長ビジョンとは。
【ナレーター】
父親の仕事の関係で転勤が多く、話す度になまりが出ることを気にしたこともあったと語る大松。そんな中、印象深かった高校時代の原体験とは。
【大松】
入ったばかりの時に数学の問題を順番に当てられて、黒板で解くということがあって。僕自身、別に奇をてらったつもりはなかったんですけれど、先生から「後で職員室来なさい」と言われて「何かやったかな」と思っていたら、「あれはどうやって思いついたんだ」というようなことを言われて。まあ、ある意味褒められたんですね。
話すことが得意な同級生は周りにたくさんいましたが、こういうところは少し自分がむいているのかなと思って、得意なところをもっと伸ばしたいと思った記憶があります。
【ナレーター】
その後、映画に没頭し、自主制作に挑戦した大松。その経験から得た学びについて、こう振り返る。
【大松】
高校生の時は学園祭で、2回ほどクラスで自主制作映画をつくり、大学でも1回、建築学科に入ったばかりのときにつくりましたね。僕は出る方ではなく、脚本を考えたり企画したりという裏方のほうが好きでした。
蓮實重彦さんという後に東大で学長までされた方がいまして。フランス語の先生が本職なんですが、映画評論家としても色々と活躍されていた方で。
蓮實さんの映画のゼミというのがあって、年間100本くらい最低でも見なければいけないというハードなゼミなんですが、先生にあれを見ろ、これを見ろと言われながら、皆で探して見るというようなこともして、とても面白かったですね。
【ナレーター】
大学では理工学部建築学科を専攻した大松。その理由とは。
【大松】
実際に社会でものをつくったり社会に何かサービスを提供したりすることのほうが面白いのかなと思えてきて。
サークルの先輩や親しい先輩にそれぞれの学科がどういうことをするのか話を聞きながら、当時の認識であれば、より地に足をつけ、それでいてかなり自由に、決められたルールだけではなく自由に提案できるのは建築かなと自分なりに感じて、建築学科にした記憶がありますね。
【ナレーター】
より専門的な知識を学ぶため、建築学科を専攻する人の多くが大学院へ進学する中、大松は就職を選択。その理由について、ある建築物と出会ったからだと大松は言う。
【大松】
僕がその当時好きだった建築のひとつに代官山のヒルサイドテラス(設計:槇文彦氏)があるんです。建築と建築の周り空間、道路だったり公園だったり緑地だったりとあるんですけど、その関係づくりというのがとても上手だなと思いました。
どうしてこんなに心地いいんだろうというようなことを自分なりに考えた記憶があって。槇先生と少しコミュニケーションを取らせていただいた時に、そんなことを少し話す機会があって。こういうのは交流の結果できあがるものだとおっしゃったんです。
クライアントのやりたいことなども一緒になって交流しながらつくっていく。そのダイナミズムが、クライアントと建築家だけではなくて周りの環境、物理的な環境や住んでいる人たち、近隣の方々との関係とか、そういうソフトな環境も含めて、そういうものとの交流をしながらその力学の中でできあがってくるのだと槇先生から聞いたんですね。
それを聞いて自分自身の技術とかデザイン力だとかを高めるために大学院に当然行くんだろうとも思っていたのですが、それよりは世の中、社会で起きていることのダイナミズムを早く体感したいと感じて、大学4年の春頃に就職しようと決めましたね。
【ナレーター】
その後、日建設計へ入社。バブルの崩壊とともに訪れた不況の影響もあり、思ったような仕事ができない日々が続く。そんな中、ある2つのプロジェクトチームのリーダーを拝命されたことが、大松の運命を大きく変える転機となった。
【大松】
東京ミッドタウン、六本木の防衛庁の土地の仕事をやることになりまして。その中で一番大きかったのは、当時かなりイレギュラーなのですが、外国のデザイナー、デザインアーキテクトをたくさん使いたいというご要望があり、当時日建設計はそういう仕事の仕方をあまりやっていなかったんですね。
それこそバブルが弾けた中でこれから変わらなければいけないんじゃないかと僕自身そのように思って。それをではどういうふうにマネジメントすれば、日建設計にとってもハッピーでクライアントや社会にとってもプラスになるのかと。
それは中心的に整理することができて、その仕事をずっとやることができたのが2000年初期の話です。
そうすると同時に、東京駅の八重洲側、グランドトウキョウと言われている、大丸などがあるところですね。あそこの開発が始まったのもその頃で。
たまたまそこには地下街があり、どういうふうにwin-winのプランができるかというようなことが、開発を大きく進める力学の末の割と狭いパスだったんですけれども、前に進める道を見つけることができて。それがうまくいってああいうふうに何とか出来上がりました。
その2つをリーダーになりたての時に、色々と悩み、みんなに相談をしながら助け合ってできたというのがすごく大きかったなと思いますね。