【ナレーター】
企業の基幹業務を支えるソフトインフラを提供し、2022年5月末時点で260社100万人以上の給与計算業務を受託している「株式会社ペイロール」。
“フルスコープ型アウトソーシングサービス”として、クラウドで受け付けた各種書類の「確認、整合性検査」まで請け負う同社は、日本初の給与計算に特化したアウトソーサーとして、2021年6月に東証マザーズへと上場を果たす。
近年では従業員・拠点・外部機関に対応する窓⼝業務を担う「BPOセンター」を北海道や長崎、香川などの地方にも設置するなど、顧客のニーズに応えるべく、その対応領域を拡大させている。
ゼロから市場を切り開き、国内シェアトップへと登りつめた創業者の軌跡と、今後の展望に迫る。
【ナレーター】
湯浅が語る、国内シェアトップを実現できた3つの要素とは。
【湯浅】
1つ目は、従業員が自発的に情報を発信できるWebサービスです。
2つ目は、応用がきく独自の“給与エンジン”です。当社は現在(2022年5月)、 250社以上のお客様とお取り引きがありますが、1社たりとも同じ計算ロジックで給与計算ができる会社はないわけですね。
ですから、そういうものを一つのシステムで、何百社のいろいろなロジックを実現する機能を持っていなければならない。
3つ目がオペレーションなんです。日本はやっぱり、まだまだ行政のDX化などが遅れています。紙で何か処理をしなければいけないということが、たくさんあるんですね。こういった部分のオペレーションを当社が担うことができます。
この3つが機能としてあって初めて、給与計算のアウトソーシングができますよということなんですね。
これらを一括で提供している会社は恐らく当社ぐらいだと思います。それも特に「エンタープライズ」という従業員数1000名以上の企業においては、かなり競合が少ない状況にあります。
会社ごとにいろいろな制度がありますし、社員数が多いとそれだけ働き方も多様になりやすい。それによって就業規則もたくさんあるということに当然なりますので。そういう面で給与計算のアウトソーシングは大変難しい。
それをもう何十年と提供し続けてきましたので、ノウハウがたくさん溜まってきています。
このノウハウを活用することによって、新しいお客様にも「こういうやり方がある」と提供をさせていただいているというのが、今好循環になっている理由だと思います。
【ナレーター】
創業者である湯浅の原点は、新卒で入社した大手電機メーカーだった。
ハードウェアの検査や修理を行なう部署に配属される予定だったが、不器用な自分では部署に貢献できないと、自ら人事に掛け合った結果、システムエンジニアの部署に配置変更となった。
これが、後の人生における転機のひとつだったと湯浅は振り返る。
【湯浅】
そのシステムエンジニアという仕事が驚くほど面白かったんです。もう本当に仕事を何時間やっても飽きないわけですよ。
「お客様のためになるにはどうしたらいいか」みたいなことを考えて、自由に組み立てられるわけですよね。それがもう楽しくて仕方なくて。
そこでビジネス、仕事というものを初めて真剣に考えると。こういうような状況だったと思います。
【ナレーター】
その後、順調にキャリアを重ね、自分の力を試してみたいと思うようになった湯浅は、30歳を機に独立を決意。1989年にペイロールの前身となる有限会社コンフィデンスサービスを設立した。
【湯浅】
友人から東芝社製の小さなオフコン(オフィスコンピューター)を譲り受けて、事業を始めました。
システムはつくれますので、何かやるといったらシステムをつくって、それを営業して販売して、お客様を増やす、みたいなことを一人でやっていました。
大手企業を退職してものすごくよく分かりました。大きな傘の下で、どんなに自由にさせてもらっていたのか。
一人になったときに、いかに社会的信用とかがなくて、ビジネスをやるのにどれだけ苦労するのかというのは、そこから初めていろいろなことが分かって。
失敗して学ぶということは今もですが、当時も繰り返していたような気がしますね。
【ナレーター】
事業の拡大を目指し奔走した湯浅だったが、バブル景気に陰りが見え始めた頃に最初の壁にぶつかることとなる。
【湯浅】
あの時代は、事業を始めるときの資金は自分で用意するか銀行から借り入れをするしかなくて。1度企業して駄目なら自己破産するしかないので、2度目のチャレンジはないという、今とは全く違う時代でした。
それで事業がうまくいけばいいんですけれど、途中で失敗するなどして返済が滞るようになったときに、やはりどうしようかということで。
その時に「毎月、数千円ずつ返せば返す気がないわけではない」と銀行に一緒に行って交渉してくれた先輩がいまして。そういう交渉を銀行にするということを理解していなかったものですから目から鱗でしたね。
その先輩にいろいろなことを教えてもらって、銀行の協力も得られて資金が回ってきて。事業がそこから少しずつ伸びていくという次の段階に入ることができました。
【ナレーター】
周囲の協力により苦しい時期を乗り越え、会社の規模は徐々に拡大していったが、自身が描いた成長ビジョンとは程遠く、悶々とする日々を過ごす。
そして1996年、後のペイロールへとつながった最大の転機を迎える。
【湯浅】
「アメリカのアウトソーシング事業を行なっている会社を見に行こう」みたいなツアーがあって。
アメリカで一番大きなADPという会社を見学させていただいたときに「給与計算のアウトソーシングというのは、こういったものになるんだ」と。
すごかったんですよね。小切手を印刷していて、ちょっと考えられないような世界で。そういうビジネスにすごく憧れて。
これは日本でも必ずそういう時代が来ると。1つの会社にアウトソースして、その会社が設備や情報セキュリティーなど、そういうものを守ったほうが圧倒的に効率的だというのは、普通に考えたら当たり前のことなので。
アメリカは、それがものすごく進んでいて、日本は当時は全然進んでいなかったので。これは今後、時代が変化していくなかで変わるだろうし、変えることが社会的に意義がある。
これから日本の管理部門が強くなる、日本の人事が強くなるためには、私たちみたいなアウトソーシングベンダーが下支えする。
縁の下の力持ちで、「そこに頼んでおけば、もうちゃんとそこは回っているから安心だよ」というような世界になることがいいことだと私は思っていますし、そのADP社を見たときに「絶対にそうなる」と思って。
帰国して2週間後くらいに、今までの記帳代行の仕事を全部営業譲渡して資金をつくって、それでアウトソーシングの事業を始めたんですけれども。