【ナレーター】
建設機械向け油圧フィルタにおいて世界シェアトップを誇る「ヤマシンフィルタ株式会社」。
1956年の創業以来、顧客からの要望に応える確かな技術力を武器に、世界初となるガラス繊維ろ材など、フィルタのコアである高性能ろ材を独自に開発。
近年では、次世代のろ材となる合成高分子系ナノファイバー『YAMASHIN NANO FILTER®』をベースに、油圧・潤滑装置清浄度センサの『SWIFTROCK® (スイフトロック)』、革新的エアフィルタ『NanoWHELP®(ナノウェルブ)』、究極のフィルタマスク『Zexeed®(ゼクシード)』など、SDGsという言葉が生まれる前から環境に配慮した製品開発を進めており、その存在感を際立たせている。
「フィルタビジネスを通じて社会に貢献する」という精神のもと、邁進し続ける経営者とヤマシンフィルタの軌跡に迫る。
【ナレーター】
フィルタの専門メーカーであるならば、ろ材から自社で開発・生産する。そこにこだわり続けていることがトップシェア獲得の大きな理由であると、山崎は語る。
【山崎】
フィルタで一番大切な部品は、やはりろ材です。紙からガラス繊維、ガラス繊維からナノファイバーへと進化していますが、これを自社で開発・生産することにこだわっています。
先代の時代からガラス繊維を手がけていて、そのDNAを継ぎ、現在も、ろ材を自社で開発・生産しています。
よく「ラーメン専門店」にたとえるのですが、ラーメンの専門店と名乗っている中には、スープも麺も外部から購入し、提供しているような店舗がありますよね。
これでは“名ばかり専門店”です。同じスープと麺を購入すれば、誰がつくっても似た味になる。それで果たしてラーメン専門店と言えるのかというと、違いますよね。
店ならではの秘伝のスープとスペシャルな麺を、職人の技で仕上げて提供するから、専門店としての味が出るのです。
同様に、フィルタの専門メーカーを名乗っているのに、ろ紙を買ってきているようではフィルタの専門メーカーとは言えません。
メインであるスープ(ろ材)は秘伝でつくらなければ、フィルタの専門メーカーではないということです。
【ナレーター】
山崎の原点は幼少期の経験にある。家業を手伝う中で、跡を継ぐ気持ちが芽生えた山崎は、「紙」の専門知識を身につけられる大学へ進学。
卒業後、大手機械メーカーを経て、ヤマシンフィルタの前身である山信工業株式会社に入社した。当時は経営企画に従事しており、社会情勢の変化という障壁に翻弄される日々だったが、学びも多かったという。
【山崎】
当時はプラザ合意などがあり、円高が進んでいた時代。「アメリカのフィルタメーカーから直接買った方が得だ」という声が聞こえるようになり、危機的な状況でした。
日本は、戦後何もないところから奇跡の高度成長を遂げました。これに少し遅れて成長してきたのが、韓国や台湾です。
ある意味、兄弟分となる韓国や台湾と手を結ぶことで、アメリカ・ヨーロッパに対抗できるのではないかと思いました。しかし、実際にその交渉をして見積もりを見ると想定以上に高かったのです。
そのため、次の策としてマレーシアやフィリピンなどアジア各国を回りました。
そしてフィリピンに行った時にフィリピン政府の投資委員会から、「自分で工場を持って海外生産してみては?」というお話を頂戴しました。
この一言が、現在のセブ島の工場をつくるきっかけになったのです。
【ナレーター】
フィリピンでの経験を糧に順調にキャリアを積んだ山崎は、1990年に父の跡を継ぎ代表取締役社長に就任。アメリカやオランダなどにも拠点を立ち上げ、グローバル展開を加速させる。
一方で、毎月のように世界を駆け巡る日々をいつまでも続けられないと危機感を持ち、熟考の末にたどり着いたのが上場という道だった。
【山崎】
会社が一定規模になり人数が増えてくると、社長一人が世界を回っていくのにも限界がきます。
これを解消するためには、組織力で会社を伸ばしていかなければなりません。そこで、システム化し、組織で動いていく会社に変えるために、上場を目指すことを決めました。
【ナレーター】
上場へと舵を切った山崎だったが、またしても壁が立ちはだかる。
【山崎】
2008年に上場しようと準備を進めていたものの、リーマン・ショックが発生し、当社の業績も一気に落ちてしまいました。
これは上場どころではなく、まず生き延びなければならないと、やむを得ず上場をいったん中止しました。
とはいえ、世間が認める組織にするためには上場しかないという思いがあり、もう一回挑戦することを決めました。
改めて2011年の上場を目指してきたのですが、今度は東日本大震災が発生し、再度中止を余儀なくされてしまったのです。
【ナレーター】
度重なる不運に従業員も落胆する中、山崎は諦めなかった。
【山崎】
何回挑戦しても、この会社は上場できないといって辞めていく社員も何人かいました。しかし、ここはしぶとく、三度目の正直で頑張るのだと決めていました。
そしてついに2014年10月に東証二部(当時)へ上場し、2016年3月に東証一部(当時)への市場変更が実現したのです。
実は私、大学を二浪しているんですね。大学の二浪は自分で気合を入れれば、頑張れます。
しかし、会社のIPO(上場)は一人ではできません。組織戦だからこそ、従業員と想いを共にして取り組まないと上場ができないということは、とても学びになりました。