山下医科器械株式会社 ~上場直後に襲った倒産危機。社長の苦悩と導き出した答え~

Vol.2 入社当時のエピソード

山下医科器械株式会社 代表取締役社長 山下 尚登 (2015年7月取材)

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-入社当時のエピソードと父親について-

【聞き手】

ご自身は大学を卒業されてすぐに会社に戻ったわけではなくて、一度修業ではないですが、就職をされていらっしゃるのですよね。

【山下】

一応、電子工学を卒業したものですから、当時の日本無線医理学研究所という会社に入りました。そこは超音波診断装置を開発していて、また核医学と言って放射線の色々な診断機器も合わせて開発をしていた企業です。のちにアロカ株式会社という名前になるのですが、そこの技術部にお世話になりました。1年ちょっとですが、お世話になって色々なことを勉強させていただきました。

【聞き手】

1年ちょっとで実家の方に戻らないといけない状況になって、戻って最初にされたのが、新しく始めるという新規事業。

【山下】

北九州のある企業の本社が、医療ガスの配管の設計と施工をやるという話で、フランチャイズ店を募集してうちが真っ先に名乗りを上げた、というところだったのです。

【聞き手】

創業家の、ゆくゆくは経営者の候補として戻られていると思いますし、新しい事業というのもあって、すごくプレッシャーを感じられたのではないかと想像したのですが。

【山下】

プレッシャーも多少はあったと思いますけれども、一生懸命にやるしかありませんでした。研修にも1カ月くらい行きました。

【聞き手】

その時の経営者はお父様でしたね。普段家族として接していたお父様と、会社に入社をされて、社長として接するお父様というのは、何か違いはありましたか。

【山下】

子供の頃というか、中学高校くらいの時は、もう会社の話を家の中でちらちらとするのですよね。それを聞いていて、社長は社長だと感じていたので、特に違和感はありませんでした。祖父からも「家族だけれど、家族としては接するな。社長として、あるいは会長として接するように」と1回言われましたね。

【聞き手】

お父様は経営者として、どういうタイプの経営者だったのですか。

【山下】

やはり父も小さい頃はおとなしい子だったらしいのです。大学は日本大学でしたので、東京に行って刺激を受けたのではないですかね。色々と本を読んだりして、精神的な経営を取り込もうという意欲はとても持っていました。近代的な経営をやろうという部分が強く出ていたと思います。

【聞き手】

割と社員の方に対しても上からトップダウンでいかれるよりは、意見を吸い上げていかれるようなタイプですか。

【山下】

そうですね。もちろんトップダウンもあるのですが、うちの会社の基本方針は、1番目に「全ての従業員にとってその一生をかけて悔いの無い会社であること」というのがあるのです。父が昭和47年に社長になる時につくって、社員に出しました。当時はたぶん、社員が1番上に来る方針というのは少なかっただろうと思うのです。

【聞き手】

当時は本当に珍しいですよね。

【山下】

祖父の代は田舎から来た人を住み込ませて、いわゆる丁稚奉公ではないですが、日本の昔からの伝統的なやり方をしていました。父はそれも近代的に変えていこうとしたと思うのです。昔は格差社会なので、そういう丁稚奉公や家事手伝いをされている人たちは、食べる物も違っていたと聞きましたが、私の推測ですけれども、父はそういう悲哀を感じていたのだろうと思うのです。その人たちが悲哀を持って働いていたかどうかは分かりませんけれども。そのことを感じていて、自分が社長になって、社員の人たちと協調し合いながら会社を盛り立てていこうという思いが根っこにあったのではないかと思うのですけれどね。

社長プロフィール

President's profile
氏名 山下 尚登
役職 代表取締役社長

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