【ナレーター】
トータルヘアソリューションのリーディングカンパニーとして、世界20の国と地域に68社のグループ会社を擁する、「株式会社アデランス」。
男性向けブランドの『ADERANS(アデランス)』女性向けオーダーメイド・ウィッグブランドの『レディスアデランス』、女性向けレディメイド・ウィッグブランドの『FONTAINE(フォンテーヌ)』、毛髪移植で北米市場トップシェアを誇る『BOSLEY(ボズレー)』など、国内458店舗、海外276店舗(※)を展開。
※2022年8月時点
今後は、コア事業の毛髪事業に加え、美容事業、ヘルスケア事業、医療事業を主軸に、世界的なビューティー&ウェルネスカンパニーを目指し、挑戦を続ける。
トップランナーとして業界をけん引する経営者の軌跡と、彼が思い描く未来像に迫る。
【ナレーター】
アデランスの強みについて「ものづくりに対して妥協しない」ことだと津村は言い切る。
【津村】
マーケティングの4P、「プロダクト」、「プロモーション」、「プライス」、「プレイス」がありますよね。
いいものができないと宣伝すらできませんが、いいものをつくれば宣伝にも力を入れることができます。販路も増え、自信をもって価格を設定できます。
また、ものを売ればゴールだという人たちもいますが、私はそうではないと思っています。
ものを売ってからがスタートで、売ったものが良ければリピーターができます。ところが、ものがダメなら購入は最初で最後です。
いいものをつくれば、また当社のブランドを使いたいとファンになってくれる人もでてきます。だからこそ、納得したものをつくっていきたいですね。
【ナレーター】
津村の原点は入社時に受けた研修での経験にある。アデランスに入社し、いち早く技術を身につけようと、技術の習得に励むも、研修で思うような成果が出せなかった。現状を打開するために津村が取った行動とは。
【津村】
当時、当社では毎年、ヘアカットの技術大会が開催されていました。私の目標は、この大会で優勝することでした。
目標を達成するためには技術力を徹底的に磨かなければいけないと考え、休日に老人ホームや養護施設で、カットのボランティアも行いました。1日で20人ものカットを担当するので、技術が上達するんですよ。お年寄りにも好評でした。
それ以外にも、寮の自室でウィッグのマネキン相手に練習もしていました。「優勝しなければいけない」という一心で、とにかく練習に明け暮れていましたね。
【ナレーター】
技術を磨いた津村は、その後、埼玉エリアの担当として成果を上げ、弱冠24歳で支店長に就任した。当時について、こう振り返る。
【津村】
やりがいは、ありました。年功序列ではなく実力主義で、頑張れば認めてもらえるのが、私にとっては魅力的でした。
そうするうちに、いきなり中堅ほどの規模の支店長に抜擢されましたので、「頑張って良かったな」と思いましたね。
【ナレーター】
その後、アデランスは成長を続け、2003年には過去最高の業績を達成。しかし、2009年のリーマン・ショックをはじめ、さまざまな要因が重なり、アデランスは苦難の時代を迎えることとなる。
【津村】
この状態ではダメだということで、創業者であり現会長の根本信男が代表になり、もともといた社員とともに、やり直そうということになりました。
その当時、私は営業やマーケティングを担当していたので、初心に戻って一から仕事のやり方を見直しました。その結果、業績は徐々に回復しましたが、受けたダメージについては修復が必要だったため、業績を回復させながら立て直しを進めていきましたね。
【ナレーター】
当時、執行役員を務めていた津村は、この危機を経て、会社とは、経営とは何かを改めて考えたという。導き出した答えと、その後にとった行動とは。
【津村】
世界中の毛髪で悩む人々を笑顔にしたいと考えました。原点である創業の心、そこにもう一度戻らなければいけないと思ったのです。
そのためには、「最高の商品」「最高の技術と知識」「心からのおもてなし」、これらが本当に重要だという考えに基づき、経営理念を見つめなおし、再構築しました。