株式会社ドトールコーヒー ~一文無しから生まれた日本一企業 『ドトール』誕生の軌跡~

Vol.3 価値観

株式会社ドトールコーヒー 名誉会長 鳥羽 博道 (2013年7月取材)

[もっとみる]

―価値観―

【齋藤】

コーヒーの製造販売(卸)からコーヒーも自分で売るということになると当然豆を買っている方々からの反発、「俺たちの商売を邪魔するのか」ということがどこの世界でもあると思います。粉屋さんがパン屋をやってはいけないみたいなことがありますが、この辺もあえて挑戦されたわけですか。

【鳥羽】

うちのドトールというロゴを作ったデザイナーがいたんですがそういう状況のもとにチェーンをやるということは他の得意先の反発を買うから成功しないということを言われたんです。さきほど言われたような状況のもとでコーヒーの卸を始めたものですから都心で買ってくれるところがほとんどないんです。みんな横浜だとか千葉、群馬、埼玉、主たる得意先は東京を通り抜けてみんな地方なんです。したがってその真ん中が空いていたということが比較的そういった軋轢を生む状況にはなかった。

最初にコロラドというものを作りました。これは一つのきっかけがありまして、ある家庭の主婦がご主人が亡くなって、その保険金が入ってもちろん子供さんもいますのでその後の生計を立てるのに喫茶店をやろうということになりました。当時、飲食店のコンサルタントとしては日本一の人間ですね。その人間の指導を受けて赤坂の溜池でやったのですが、私は見たとたんにこれは失敗すると思いました。案の定失敗して、その奥さんも虎の子のお金がなくなったわけですからノイローゼのような状態に陥った。それに対してコンサルタントは何の手も貸さない。

こんな不幸な人を作らないような手本になるお店を作りたいと考えたんです。そのころは名曲喫茶や田園とか薄暗くて不健康なお店が多かった。次の時代というのはコーヒー専門店という形でサイフォンで一人ずつのコーヒーを立てて飲んでいただく。次の時代はこれだと考えてコロラドという店名で始めました。

【齋藤】

店名もよかったですね。

【鳥羽】

ブラジルにコロラド輸出入会社というのがありました。ブラジルに移民した方々が大変な苦労をしながらどうやら成功した。成功してみると一つのノスタルジーで、自分たちの農園で作ったコーヒーを祖国日本に輸出したいということで、コロラド輸出入会社というものを作って。その人たちの苦労をよく聞いて知っていますので、その人たちの店名をつけて、そしてその人たちが作ったコーヒーを輸入してそのお店をやろうと思いました。そうすることがその人たちに対する恩返しみたいに。これが成功したんです。

普通、喫茶店というのは6回転で成功というのを12回転したと。その売り上げを大学ノートにつけておきますと、脱サラブームだったということもあり、帳面を見るとこんなに売っているわけないとみんな疑うわけです。しょっちゅう通ってくるわけです。疑っている方は、現実的にそれだけの売り上げかどうか。そしてこれが本当だと分かっていくうちに自分もやりたい私もやりたいということで、ボランタリーチェーンという形で展開しました。フランチャイズを知らなかったものですから、ボランタリーということでやると10年間で250店のコロラドというコーヒー専門店ができました。

【齋藤】

そうするとFC料を取らずに単に豆を買ってもらおうと。

【鳥羽】

原材料を買ってもらう。

その時にこの一つの業態というのは必ず衰退の時期があると考え、その衰退の時期になって私を信じてついてきた方々に、「次の時代は何ですか」と聞かれた時に「いや、分かりません」というのはあまりにも無責任な話だなと思いました。今度は次の時代は何かという次の時代に対する模索が始まって分からなかった。

そしたら業界で初めてヨーロッパツアーというのをやりまして、ヨーロッパの喫茶店やコーヒーの製造卸の会社を見学に行くというツアーがありました。最初はベルギー、次はパリだったのですがシャンゼリゼの通りの地下鉄、真ん中に地下鉄、その地下鉄からサラリーマンがたくさん出てくる時間でした。ちょうど出社前の時間です。前の喫茶店に入っていって、みんなカウンターに二重三重になって立って飲んでいる。日本でそんな習慣はないものですから何をやっているんだろうと思いました。よく見てみると、立って飲むと50円で、座って飲むと100円、テラスで飲むと150円と価格帯が違うんです。その時に「これだ!」と心の中で叫びました。最終的にくる喫茶店の形態はこれだとそのことを一つ学びました。今度はドイツに行きましたらコーヒーのTchibo(チボー)社というチェーン店がありまして、たくさんコーヒーを店頭に並べて奥で立ち飲みで30円ぐらいでコーヒーを飲ませるということをやっているのを見て、やがて日本でもこうしてレギュラーコーヒーを家庭で飲むという時代がやってくるな、それに対応できない焙煎業者というのは衰退する、成長できない。そのことを知って、将来こうなると感じた。3つ目はスイスの工場を見た時にそのスイスの工場の美しさに驚きました。階段などもつやつやの階段で、自分の顔が映るんじゃないかと思うくらい。その時にコーヒーというものを宝石のごとく扱っていると思いました。それに感動しました。そしてこの工場というのは将来社員が早く工場に来たいという工場を作らなくてはいけない。

一つは最終的にくる喫茶店の形態は立ち飲みである。その次はレギュラーコーヒーというものを一般家庭に販売するというシステムを作らない限り焙煎業者として勝ち残れない。もう一つは工場というのはきれいでなくてはいけないという3つの思想を得て帰ってきました。

【齋藤】

その時ミッションで行かれて120~130人の同業の方もいらして、会長のような問題意識、危機感というものを持っているからこれだ!というふうに思うのであって、ぼーっとしていると、ただ行ってきたよということで終わってしまうわけですね。やはりそこのところが決断に至る大きな問題意識なんでしょうね。

【鳥羽】

それからしばらくして10年間ずっと温めてきたんです。

【齋藤】

すぐはやらずに。それは時ですね。さっきおっしゃった中の。

【鳥羽】

そうですね。その時に林さんという方、丸紅の社員でコーヒーの担当者だったのですが、「可処分所得の低下が来だしている」と言ったんです。オイルショック以降、実質所得のサラリーマンの所得の目減りが起きているということを聞きましてその時にこれは大変だ。サラリーマンを助けなくてはいけない、というのがいちばん最初に感じたことなんです。ということはかつてコーヒーというのは今こそ、かつてフランスで見た、立ち飲みのコーヒーをやろうと。そして経済的負担なく毎日コーヒーが飲めるようにしたい。その時に150円と決めたんです。

当時コーヒー屋さんは270~280円ぐらいだったのですが、150円。150円だと経済的負担を感じずに毎日コーヒーが飲めるはずであると考え、それを原宿の駅前に9坪で、わずか9坪のお店をドトールコーヒーショップということで150円で始めました。

コーヒーだけでは商売にならないということで、かつてドイツでソーセージを食べたら世の中にこんなうまいものがあるのかと思いました。こんなものみんなに食べさせたら喜ぶだろうなという思いがずっとあったので、9坪の狭いお店の中で何ができるだろうかと考えた時に今もやっているジャーマンドッグ。あれだとスペースを取らなくていいんです。日本にはまだその時(ドイツで食べたような)ソーセージがなかったんですが日本でいちばんおいしいソーセージを作る会社はどこですかと聞いたんです。そうすると、栃木の滝沢ハムだと聞きました。

【齋藤】

滝沢ハムというのは名前知られていますね。

【鳥羽】

すぐ電話しましたら副社長が出ました。息子さんですね。待っているということですぐパンを持って飛んでいきました。それで一緒に行って作り上げました。

【齋藤】

安くするんだけど、その中で本物を徹底していくということですね。

【鳥羽】

ですからジャーマンドッグを作ったのですが当時は原価7割ぐらいしたんです。これいくらで買ってもらえるだろうと思ったらまずその価値を感じてもらうのは180円と先に価格設定をするわけです。180円の中でコストをどれだけ下げられるかということで売価を先に決める。人が買ってくれる、価値を感じてくれる金額はいくらかということですね。それから数多く店を作って量が増えますのでコストが下がっていくということで採算がまわっていくということをやってきたということです。

【齋藤】

日本の製造業も戦後特に海外のいろんな技術を導入しながらやっていくわけですがそれに比べると流通だとか食品のところが非常に遅れていたわけです。それを社長はいち早くそういうものをそのまま真似するのではなくヒントを得ながら、それをすぐではなく時間が熟すのを待って、本物をやっていくということで大きな成功をつかんだということなんでしょうかね。

【鳥羽】

そういう意味では一般の卸からコロラドというのをやる時にはちょうど時代としてのタイミング、時はよしということだと思います。それからその後にドトールコーヒーショップ作るというのも10年間間隔が開きましたがちょうどそのタイミングとしてはよかったんだろうと思います。

社長プロフィール

President's profile
氏名 鳥羽 博道
役職 名誉会長
生年月日 1937/10/11

あなたにおすすめのコンテンツ

この社長に応援メッセージを送る
この社長に直接提案