貝印株式会社 ~「失敗は進化のもと」世界に名を馳せる刃物メーカー、海外戦略の全貌~

Vol.1 貝印の歴史と海外留学の経緯

貝印株式会社 代表取締役社長 遠藤 宏治 (2015年10月取材)

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―貝印の歴史と海外留学の経緯―

【遠藤】

私どもの会社は、私の祖父から始まりました。1908年に私の祖父が、岐阜県の関市という所でポケットナイフの製造を始めたのです。それから1932年に、その私の祖父が国産で初めてのカミソリを作り始めました。最初はポケットナイフから始まって、包丁だとかそういったものを作っていたのですが、1932年にその国産のカミソリを作り始めたということですね。私の父は、祖父が作ったカミソリを販売することを始めて、それまでは安全カミソリだったのですけれど、独自の物を作りたいということで、いわゆる軽便カミソリというのを作り始めました。また軽便カミソリだけでなく、祖父が作っておりました包丁だとか爪切りだとか、ハサミだとかカッターナイフとか、刃物全般に広げてまいりまして、貝印の元を作った。ということで、その後を私が継いだという経緯です。

私は姉と2人きょうだいで、男は私だけですからやはり家業なのですけども、長男がそういったものを継ぐということに宿命めいたものも感じていました。岐阜県の美濃加茂市という所、関市の隣町なのですが、そこに正眼寺という禅寺」がありまして、妙心寺派の雲水さんがたくさんおられる専門道場なのですね。そこの老師とは、私の父や祖父も親しくさせていただいていまして、その老師がお越しになった時に、あなたはここの家の皇太子みたいなものだから、そういう自覚を持ってやりなさいよと言われたりしました。親からは言われていませんでしたけど、そういった方たちから言われていたので、何となく自覚めいたものはできていましたね。

地元の関市の小学校と中学校に通いまして、幼少期はそれなりに地元の人たちと遊んでいました。小学校の時は普通の子どもと同じく、野球をやったりとか、色々な遊びをしたりしましたし、中学校の時はバスケットボールをやりまして、キャプテンを務めました。

その後、岐阜市にある岐阜高校に行きまして、関市からはやっぱり通学するのに片道1時間くらいかかるので、どちらかというと通うのに精一杯で、なかなかクラブ活動はできませんでした。主に通学組というのか、帰宅組というのか、学校に行ってまた帰って来るという3年間だったのですけれど、関市と比べると岐阜市は、県庁所在地で大きな街ですから、何となく都会に行くような気分で3年間通っていました。大学に進学するつもりでしたから、一生懸命勉強したという記憶はありますね。

実は、東京の大学も色々あって、私自身は某国立大学も受験をしたのですけれど、そこは残念ながら落ちてしまいまして、早稲田大学に入ったわけです。その時に私が東京に行きたい、岐阜から東京へ行きたいと思っていたと同時に、また海外志向もあったのですね。ちょうどその頃、アメリカの西海岸 ブームと言いましょうか、カリフォルニアブームということもありまして、私は「浪人しない代わりに、大学を4年で卒業したら海外に行かせてくれ」というお願いを両親にしていまして、その手形をもらっていたのでめでたく卒業し、それから海外に行ったという形です。

私が住んでいたのは、ロサンゼルスのサンタモニカで、本当に海岸から2ブロックくらいの所で非常に環境が良い所でしたけれど、 MBAのコースですから、かなり予習復習をしておかないとちょっと授業についていけないので、今までの中では一番勉強した2年間だったと思います。

周りの新しい環境とか、そうやって異国の地で一人生活するというのは、もちろん4年間の早稲田時代に東京での一人暮らしもありましたけども、異国の地で2年間暮らすというのは非常に良い経験だったし、何よりも、私は英語が結構好きで、得意というほどではないですけれども、その基礎が2年間でできたかなと思います。MBAの勉強もしましたが、その知識よりも今役に立っているのは、英語力と言いましょうか、英語で色々対応できたり、お客さんとも話ができたりして、色々なことが役に立っているかなという感じです。

社長プロフィール

President's profile
氏名 遠藤 宏治
役職 代表取締役社長
生年月日 1955/10/21

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