株式会社フェローテックマテリアルテクノロジーズ(旧株式会社フェローテック) 親会社を逆に買収!? ものづくりを支えるグローバルメーカー、誕生の軌跡 株式会社フェローテックマテリアルテクノロジーズ(旧株式会社フェローテック) 執行役員代表取締役社長 山村 章  (2016年12月取材)

Vol.1 反骨精神からの渡米

インタビュー内容

―反骨精神からの渡米―

【聞き手】

それでは本日は、磁性流体応用製品メーカーとして世界トップシェアを誇る株式会社フェローテック、代表取締役社長、山村章社長にお話を伺っていきたいと思います。それでは山村社長、よろしくお願いいたします。

【山村】

よろしくお願いいたします。

【聞き手】

理系の道に進学されますが、理系分野にご興味があったのでしょうか?

【山村】

母親には医者になれと言われていましたが、慶応の志木高に入学しまして、「よく学び、よく遊び」の方で、運動もしていました。その中で理数系にいく、医学部・工学部にいく生徒だけ(集められ)1クラスだけ別にされるんです。何故そちらにいったかというと、数学が好きというか、努力の割に点数がよかったんです。それでそちらのほうが優しいと思い、いきました。医学部は、人の命を預かるのは恐れ多く、ドイツ語もやらなければなりません。工学部の方が数学の数は多いですし、数学は何もしなくてもAだったので、それで楽な道を選んだというのが高校から大学へのいきさつです。

【聞き手】

慶応大学の工学部で学ばれて、その後すぐに就職とは考えられなかったのですか?

【山村】

大学に入った当時からアメリカにいって学びたいという気持ちが強かったんです。その中でオプションとして慶応の大学院にいく道があったのですが、高校からずっと慶応だったので飽きてしまいましたし、何となく外に出たいという気持ちが強かった。それと、父がたまたま衆議院議員でして、「今日はどこそこの社長に会ってきて、お前のことをよろしく頼むと言っといた」と。当時は日本が高度成長期でしたので、技術職の働き先は結構ありました。わざわざ自慢げに言っていたらしいので、親の言うことを聞き、そのままどこに入っても親の力でというのは面白くないと思って、反骨心だけあったものですから、親の力の届かない外国に行ってしまえと(渡米を決意しました)。

【聞き手】

きっと山村家の期待の星として、ご両親も非常に期待されていらっしゃったのでしょうね。

【山村】

そうかもしれませんが、2年くらいで帰ってくるつもりだったのですが、15年間、アメリカにいたままでした。その間で1度だけしか帰国していません。

【聞き手】

お正月などにも帰国されなかったのでしょうか?

【山村】

お金がないので、帰れないような状態でした。

―物事の原理原則を学ぶ―

【聞き手】

アメリカの大学に進学された後、向こうで就職されたということですが、その時の進路選択はどのようにされたのでしょうか?

【山村】

修士の卒業論文の時に教授から「お前、何かプロジェクトやテーマはあるのか」と聞かれたので「ありません」と答えました。すると教授が、「お前、原子力工学に関する卒論か、電子冷凍、サーモエレクトリック に関する論文の2つがあるけども、どちらがいい?」と。原子力にも興味はありましたが、サーモエレクトリックというのは、ある半導体の素子に電流を流すと片面が冷たくなり、片面が熱くなるんですよ。熱を吸収して片方から放熱するということが、コンプレッサーなしで、ソリッドステートでできるんです。それに興味があったので、そちらにいくことにしました。それが大きな分かれ道ですね。

電子冷凍のことを研究している中で、ボストンの隣町のケンブリッジにあるケンブリッジ・サーミオニックス社、通称ケンビオンと呼ばれている会社がありまして、その会社が電子冷凍の開発をやっていたんです。そこの実験室を借りて修士論文を書いたのですが、その出来栄えを見た会社から「働きにこないか」と(誘われました)。「電子冷凍に関するハンドブックをつくる計画があるけど、お前の卒業論文の延長線上にあるのでぜひ参加してくれ」と言われました。

【聞き手】

図らずしもアメリカでビジネスをされることになりましたが、(当時の山村社長は)技術者としてのイメージが強いですが(マネージメントをされるようになったきっかけは何だったのでしょうか?)

【山村】

ケンビオン時代は技術者でした。幸い、その隣で社長のお兄さんが顧問になって、磁器軸受の開発をやっていたんです。その使い先がNASAでした。ですからNASAとか空軍とか陸軍とか海軍とか、アメリカで本当にハイテク(な技術を使っている機関の事業)のところに首をつっこまされて、だいぶ勉強しました。海軍の売り上げがどんどん増えていき、忙しくなっていき、ハンドブックを出した後も反響が多く、お客さんがずいぶんついて来つつありました。

そんな中で上司が「お前、ユタ州でヒ素の精錬やるからついてこい」と言うわけです。その上司には義理もありましたので、上司の言うまま会社を退職し、それでユタの果てまでいきました。日本からも投資させていたので、日本からせっかく投資させた人たちに申し訳ないので、3年目は1年間給与無しで働きました。

その時に色々な人に助けていただきましたが、さすがに給与無しには耐えきれず、ケンビオン社の社長のお兄さんであるジョーダイマンという方が、何度も「帰ってこい」と言っていたので、ケンビオンに戻ることにしました。それで先ほどのサーモエレクトリック、電気冷凍のデパートメントとマグネティックサスペンションのデパートメントを一緒にしてディビジョンつくって、そのディビジョンマネージャーとしてケンビオンに戻りました。エンジニアとしてというよりもマネージメントとしてやり出したのはそこからですね。

【聞き手】

ケンビオンに戻られてからはどのようなお仕事をされたのでしょうか?

【山村】

そこからはジョーダイマンに大いに教えられました。経営者としても、物事の原理原則はどこにあるかを考える癖がつきました。ジョーダイマンは、彼は経営者ではなかったのですが、物事の現象を根本的なところから考えてみる(という人でした)。日本の教育というのは、方程式を覚え込まされてそれを素早く正確に解くことが優秀ですが、ジョーダイマンの考えというのは、なぜその方程式なのかというような発想ですね。ずいぶん勉強させられました。

【聞き手】

そういう発想が経営にも活きてくるわけですね。

【山村】

基本的には嘘はいけない。真実は1つしかありません。経営は1つというわけではないですけど、なるべく原理原則でやっています。誠実・懸命、懸命というのは命を懸ける(ということですが)、そのつもりでやっているんですけどね。

―ベンチャーでの挑戦と窮地に陥った独立―

【聞き手】

フェローテックという会社の始まりについてお聞かせください。もともとはアメリカの方でご入社をされたのでしょうか?

【山村】

たまたまボストンに戻ったときに展示会に行きました。真空のショーとかセミコンダクターショーがあったのですが、そこに、モスコビッツという男がいました。社長自ら商品説明をしていたんです。それで僕も磁気関係の仕事していたものですから、彼と知り合いになって、年に2度ほどショーで会うようになりました。モスコビッツは100万ドル足らずの売り上げだった頃から「グローバルにしなければいけない」と(言っていました)。「そういえば山村章というのは年に1、2回来ているけど、あいつは面白そうだから面接しよう」ということで、彼以外にも5人くらいに面接を受けたかと思います。初めは面接だとわからないまま話していたんですが、最後の方にモスコビッツから、「日本に戻らないか」という話になりました。日本に戻るのはいいのですが、フェローフルイディクスというのはまだ小さな会社でした。ですが、ビリオンダラーカンパニーというグローバルなものをつくろうというアイデアには、何となく触れるものがあったので、参加した次第です。

【聞き手】

アメリカの製品の販社ということでスタートされたのですよね。

【山村】

そうです。81年から独自で、代理店から人を1人頂いて、2人で始めました。その半年後の売り上げが1億円でした。それから翌年は5億円だったと思うのですが、そのような感じでポンポンと、まるで1歩歩くと1万円という感じでした。ちょうど今の中国のように、半導体を日本製にしろと、半導体製造装置を日本でつくろうということで、半導体製造装置の9割近くをアメリカから輸入していたんです。今の中国とほとんど同じ状況です。もう1つ政府がバックアップしたのは、ハードディスクドライブの日本周辺装置という会社をつくって、それで共同開発にする会社をつくった。共同開発で、良さそうなのがあるとみんな自分たちで自分の会社に持っていってやっていたようですが、そこもあったので、磁性流体の応用の1つとして、ディスクドライブの内部にゴミが入るのを嫌うので、そこに磁性流体シールを使うべきだというアイデアがありました。(当時は)まだ実際に使われていませんでしたが、数年後には、そのハードディスク用のシールに関して世界を独占していました。

【聞き手】

たったお2人で、日本で始められて数年後には世界独占……すごいですね。

【山村】

しかし、動きだして6年後に売り飛ばされてしまいました。向こうの会社に頭のいいCFOが来たんです。そのCFO曰く、「あと2年で真空シールのアメリカ軍のパテントが切れる。その前に売ってしまった方がいい」と。「日本も円高で景気がいいから、全部買い手を探してくれ」と。「お前がヘッドクオーターとして、日本に持っていこうがアメリカでやろうがいいけど、僕(山村)に全部任せるからやってくれ」というような話になったんです。そして、日本で買い手を探したら、アメリカはもう上場していて買ってもうまみがないから、日本だけなら買うという話になってしまった。僕はハイテク産業というのはグローバルではないと絶対に生き残れないと思っているので、日本だけ売られてしまうと(いうことを懸念していました)。日米不可侵条約ではないですが、子会社時代に結んだ契約でテリトリー分けしていたんです。僕は反対していたのですが、結局そのまま、日本だけで売られてしまったのでしこりが残ってしまいました。

―今後成長を見込む技術―

【聞き手】

これだけ右肩上がりに伸びてこられた御社の強さはどこにあると思われますか?

【山村】

うちのお客さんそのものが日本から脱出して、より安い東南アジアに移るのを目の当たりにしているわけです。アメリカ勢のハイテク業界は、東南アジア進出が早かったんです。89年に台湾の僕の友人から、「山村さん、もう中国の本土に行っても大丈夫だよ」というアイデアをもらったので、それで89年に中国をぐるっと回りました。上海、大連、深センのあたりを視察したのですが、結果としてとりあえず上海に小さな工場をつくったのです。僕は現地人を雇わないと絶対にだめだと、現地人のマネージメントではないと無理だと思っていたものの、該当者がいなくて、それでも工場進出を早くしないとならないという中で、日本の学生だった今の中国の社長に巡り会って、彼をその2年後くらいに行かせました。彼のおかげでだいぶ中国で大きくなることができました。それが1つの理由ですね。また、アメリカと一緒になれたことでグローバルになったと(いうことも理由です)。マーケティングがグローバルで、安くつくる拠点、そして日本の生産技術を導入できたというところが強みですね。

【聞き手】

私たちの生活のあらゆるところで、実は御社が開発された技術が使われているのですよね。

【山村】

そうですね。半導体の製造装置のプロセスには磁性流体を使った真空シールが使われています。その元になるシリコンのインゴットつくりには不可欠ですね。歩留まりが圧倒的に違います。太陽光発電用のシリコンにも使われていますし、エネルギー、それから電子冷凍は、これから食糧を作るのに、今はバーティカルというか垂直に面積をあまりとらず水栽培ができ、その温度コントロールをすると成長が早いということがわかってきて、そちらのほうにも使われていますね。

【聞き手】

本当に細かいところにも御社の技術が活きているということを勉強させていただいて驚きました。

【山村】

これだけ見ているとあまりメカ的な会社ではないと思われがちですが、実は中国の体制の中に、マシニングセンタが400台以上あるんです。ちょっとした工作機械、何でもつくれる会社になりつつあります。

―今後の展望と視聴者へのメッセージ―

【聞き手】

社長として、これからさらに力を入れていきたいこと、御社としてやっていきたいことは何ですか?

[【山村】

前のパートナーと言いますか、フェローフルイディクスに参加した時に、グローバルなビリオンダラーカンパニーにしようということで入ったんです。それに近づきつつあるのですが、為替レートを考えると3000億円いかないとならないので、新たな目標は3000億です。

【聞き手】

大きな目標ですね。しかし、今の御社に技術を見ていますとそれも実現できると思います。特に今、御社の技術がどんどん求められる時代になってきていますよね。

[【山村】

うちの強みは振り返ってみるとハードディスク用のシールで世界を独占していたということです。しかしその商品が死んでしまった。それでも、その後もずっと伸び続けられたのはなぜかということを自分でも考えるのですが、とにかく懸命に皆で努力してやるとなんとかなるという感じですね。

【聞き手】

今の5000人を超える仲間とともに会社をやる状況を、かつて想像されていましたか?

【山村】

想像はしていたけど、具体的な想像はしていませんでした。売り上げを目標にしていたのは事実ですね。35年前には、こことここをこうすればこういうふうになるなという、今の姿が何となくというか、かなりはっきりわかっていました。マーケティングストラテジーをグローバルにして、売れるものをより安価に、正確な技術でモノを安くつくるという体制さえ整えれば、なんでも売れるだろうと思います。しかし、これからの30年が大変でしょう。今、全く違っていますから。経済的な体制もどうなるか心配ですし、技術革新が非常に速いので商品寿命はますます短くなると思いますし、そういうこともあって(心配をしています)。ただ、基本的な真空でモノづくりする、機械加工で精密部品をつくる、色々な材料を手掛けている、加工できる、そういった技術、シリコンやセラミックや石英であるとか、ステンレス、チタン、そういったものの加工技術は、基礎的なものも持っていて、それを世界的にマーケティングできるといういうところさえあれば、何とか30年後も、僕がいなくなっても大丈夫だと思います。

―視聴者へのメッセージ―

【聞き手】

最後に視聴者の方に向けてメッセージをお願いします。

【山村】

当社は常に優秀な人材、真面目でしっかりと働いていただける人材を探しています。会社が大きくなるにつれてそういった人たちのポジション、新しいスポットが増えていますので、これは面白い、一緒になって働けるという気持ちをお持ちの方、ぜひ参加してください。世界中で日本人はどちらかというと日本にこもりがちでしたが、平和であればこれから国境のない世界に移っていくはずですので、世界中にはばたけるように頑張ってください。

【聞き手】

本日はたくさんのお話をお聞かせいただきありがとうございました。

【山村】

ありがとうございました。


経営者プロフィール

氏名 山村 章
役職 執行役員代表取締役社長

会社概要

社名 株式会社フェローテックマテリアルテクノロジーズ(旧株式会社フェローテック)
本社所在地 東京都中央区日本橋2-3-4 日本橋プラザビル
設立 1980
業種分類 その他の製造業
代表者名 山村 章
従業員数 500名
WEBサイト https://www.ferrotec.co.jp/
事業概要 ①半導体等装置関連事業製品の製造販売(真空シール・石英製品・ファインセラミックス製品・CVD-SiC製品・マシナブルセラミックス製品等)②電子デバイス事業製品の製造販売(磁性流体・サーモモジュール)③車載関連事業製品の製造販売 役職:元執行役員代表取締役社長
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